日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学029】意見の所有にかんする諸性質

2013年03月05日
【覚書】意見
【転載】

目次

 

 

 

「意見」といっても、使用される「意見」という言葉を一つ一つ吟味していくと、その背景にあるものが異なるが故に同じ「意見」という言葉として捉えられるものであっても、種類が違う、つまり異なった概念なのではないかと思えるものがある。

 

例えば政治的な主義と主張は確かに一つの意見であるが、その時々によって使用される言葉や概念としての「主義」と「主張」では何かが違うかもしれない。いいやこの主義と主張では違うというのは具体的な分類ではないだろう。より具体的な一つ一つの意見、更に言えば、一つ一つのテーゼ(命題)に対してその違いを分類すべきだろう。

 

「正しさ」とは対象を必要としており、対象との照らし合わせの作業を要する

 

私は「正しい」という観念について他でも書いているが、「正しさ」の本質には「照らし合わせ」の作業があり、「照らし合わせ」の対象が必要であろうと考えているのであるが、例えば自分が為すべきこと、為さなければならないことについての「照らし合わせ」の作業はその対象が不明確であり、同時にその対象を指示することができないが故に不十分な作業にならざるをえないと考えている。

 

従って「為すべき」あるいは「為さなければならない」と考えている多くの事柄には、何故「為すべき」なのかあるいは「為さなければならない」のかについての確実で確固たる理由がなく、理由があるにせよその理由が確実である証明ができないが故に、私たちにとって常に不十分な理屈にしかなりえないと私は考える。

 

「正しい」対象および理由が多様であることが確実であるということ

 

従って様々な意見とは同時に「為すべき」あるいは「為さなければならない」と言うにはあまりに不十分な動機であり、そうであるが故だけとは断定できないが、おおよそ局面において意見は様々であり、意見は概ね対立しているものが同時に複数の人間によって提出されるものである。まず意見が対立する理由について考えるのであれば、一つに先ほどあげた、理由が不十分であり、理由の指示が不十分であるということ、次に言語的特性によるものであろうと思う。

 

言語を用いた生物としてのヒトと「言語」としての「正しさ」の対象

 

私たちは言語を用いる動物であり、意見は基本的にこの言語でなされ、仮に言語ではない資料が差し挟んだとしても、その主体は言語であり、私たち人間は今のところ言語によるコミュニケーションを超えることはできていない。私たちの意見の対立や意見の対立ゆえの感情的な対立、敵意は、場合によっては言語的特性によっても生じているとも感じられる。

 

意見が確実に対立するという潜在性

 

私たちは一つに意見は確実に対立する潜在性を持っていると断定する必要があるだろう。

 

こういった人がいるとは考えにくいが、もし生まれてから一度も意見が対立したことがない人がいるとしたならば、それは論理的に対立していないのではなく、感情的になる、例えば泣いたり、怒ったりという心理的作用を論理的な方法というよりは作法に近いものによって回避しているに過ぎないだろうと考えるべきだろう。

 

仮にどんな時でも笑顔を絶やさないとしても、確実にテーゼ(命題)としての意見は依然として対立しているのである。

 

言語的命題の非数値性・非物性

 

基本的に言語的命題は数値的なもの、物理的なものから大きく外れる。言い換えると物質的な位置関係や運動の正確な表現ができず不明瞭であり、曖昧である場合が多い。

 

言語的命題の非指示性

 

またより潜在的なものである個人の心の作用、更には集団に至るまでの心の作用を知りえないが故に表現不能である。

 

「歯痛は自分にとってのみ痛い」

 

それはあくまで推量の域をでないし、場合によっては人は人の心の細部まで気にしないし、加えて言えば気にしすぎるわけにもいかない。心というのは単に喜怒哀楽ばかりでなく、痛みや苦しみ、快感などについても含めて考えたいが、しばしば哲学者によって表現されるように基本的に歯痛とは自分にとってのみ痛いのである。

 

意見の所有者の不在性

 

私たちは意見というものを扱うにあたり「私の意見」とか「あなたの意見」などというように意見に所有格をつけて表現する。しかしながらこの表現は不正確であると言えるだろう。意見は今述べた通り言語的特性に縛られなければならないのである。本人が望もうが望むまいが、人は限られた表現しか使用することができない。

 

すべての言語表現は断定的である

 

断定文という表現があるが、人は断定文あるいは否定文、さらに疑問文、推量、反語といった表現で言い切らなければならない。つまりいかなる場合でも一つのテーゼを投げかけるという、ある種の断定を行わなければならない。

 

すべての言語表現は反復的である

 

しかも意見は基本的には、反復であり模倣であると言えるのがほとんどである。意見とは記憶に蓄積されたテーゼの中から取捨選択して選んだものであるというのであれば、本来の所有者は別にいたとも考えられる。仮に真新しいことを言ったとしても、科学的な発見、場合によっては発明ともいうが、そういったものをのぞけば、基本的には概ね模倣であろう。

 

取捨選択の根拠の不完全性

 

取捨選択するとしても、その捨てた意見について捨てた理由は確かに理由であるが不十分な理由であろうし、選んだ意見についても同様であろう。そしてその不十分な理由も以てして、私たちは他者を軽蔑し、愚弄し、時に崇拝し、自らの意見を誇示し、あるいは盲信するのである。

 

しかしながら、確実に不十分な意見であるという状態からは抜け出せないにしても、私たちは選択しないという選択を含めて選択を強いられるのである。それは他者による強制であるというよりも先に絶対的に生きているが故に、実際に私たち自身が存在しているが故に不可避なのである。

 

言論が対立的な性質を持っているという事実を受け止めること

 

私たちはまず意見が対立するものであるということに対して正面から向き合うべきではないだろうか。そしてその理由を探り、私たちが実際に向き合うべきことが何であるのかということについて模索すべきではないかと思う。私は意見が対立していないこと、意見が意見として矛盾がないという状態をそもそも信じていない。

 

それはその意見の前提となっているものが不十分な根拠に基づくが故である場合がほとんどであろうと思うが故であり、その不十分な根拠であるということがその意見が何の矛盾もないと思わせる理由であるとも思う。この種の状態を思考停止と表現することができると思うが、厳密には思考が停止しているのではなく、単に反復しているだけであるとも考えられる。

 

対立なき言論の思考停止性

 

日本における政治的意見が絶対の自信を持って表現されるとき、概ねこの種の思考停止が起こっている可能性がある。政治的主張を声高に叫んでいる人間は大抵同じことを繰り返し正しいとして主張している。

 

そもそもこのスタンス、立場に疑いを差し挟むべきではないかという主張は概ね無視されるし、主張もされないが、しかしながら私たちの大多数は拡声器によって主張されている意見や主張している人間を基本的には無自覚的であれ疑いの目で見ているに違いない。この普通の一般的な感覚(コモンセンス)にはそれなりの理由があり、政治的無関心と単に断定するのには無理がある。

 

終わりなき命題解釈の繰り返し

 

私たちは意見つまり命題(テーゼ)を丹念に解釈するべきである。そしてその解釈というのもまたテーゼである以上は解釈しなければならないだろう。この解釈は単に人生経験的な事柄から専門的な学術的な知識にまで遡及されうる。

 

この際限のないように思える作業を延々と続けなければならないというのがいわゆる哲学的な作業であり、この解釈に人生的な限界があるが故に学問的な分業制が起こっていると捉えることもできよう。しかしながら学問的な分業制によって本来的な作業が否定されてしまっている。

 

人生における言語解釈の限界

 

人生には限界があり、知識の蓄積にも限界がある。また解釈にも限界があり、理解力にも限界があり、人は解釈ばかりもしていられないし、遊びたいし、人としての普通の生活も営みたい、というのが普通であろう。

 

それは当然それとして良いのであろうが、物事を余りにも単純化してそれを是とし、その事に満足しながら、自分のその単純な意見と対立するものの一切を軽蔑するまではいいとしよう。しかしながらそういったものを全く吟味することなく排除し、無きものとしようとするのであれば、単純にそういった感覚が文化の衰退の基礎になっているのではないかというテーゼを投げかけたい。

 

意見の所有という幻影

 

私は意見というものについての所有者について疑問を投げかけた。私の意見は果たして私の意見であるのかという問題があるが、私は私の蓄積した命題、そしてその蓄積に類する命題以外を恐らく提出できない。

 

言語命題の限定性

 

つまり誰かの言った言葉の真似をしていると考えられる。そしてその蓄積した命題ないしはそれに類する命題は言語であり、一つに言語的特性に縛られており、同時に日本語という一つの言語的特性にも縛られており、かつ日本語における作法や表現の伝統や慣習にも縛られているとも考えられる。

 

限界への反発または模倣者としての存在への反発

 

私は時にそれに反発している場合もあるかもしれないが、それでも何かしらの蓄積の真似事をしているに違いないだろう。こういった縛りに反発する理由があるとすれば、それは単に一つに確実性を求めるがためであり、もう一つは何らかの意味での不快感の回避を求めるためであろう。

 

もしそういった縛りの一つ一つが、目的語を省くが何事かを確実なものとするものであり、かつ所有格を省くが何ものかの不快感を取り払うものであると確信できるのであれば、敢えて反発する理由もないだろうし、むしろ模倣すべきであろうと考えるかもしれないし、実際にそう選択する。

 

以下同日記へのコメント

 

1: K


>、「正しさ」の本質には「照らし合わせ」の作業があり、「照らし合わせ」の対象が必要であろうと考えているのである

真理は堅固なピラミッド型の構造(対応説 CORRESPNDENCE THEORY)ではなく、ノイラートの船の例えにあるように、少しばかりの証拠が互いに支えあって(=整合して)何とか海上に浮遊している筏のようなものに過ぎない。(整合説 COHERENTISM)

※ノイラートの船 (のいらーとのふね Neurath's boat)

ウィーン学派の中心人物の一人、オットー・ノイラート(1882-1945)が『アンチ・シュペングラー』(1921) で用いた比喩。彼によれば、知識の総体というのは港の見えない海上に浮かぶ船のようなもので、そのような状態でなんとか故障を修理しつつやっていかなければならない。「われわれは船乗りのようなもの--海原で船を修理しなけばならないが、けっして一から作り直すことはできない船乗りのようなもの--である」。
この比喩は、知識に関する基礎づけ主義を批判して用いられている。すなわち、基礎づけ主義によれば、ある批判不可能な土台(となる命題)があり、その上に建てられた体系(諸命題)も、土台から論理的に導かれているかぎり批判を受けつけないものである。これに対し、ノイラートの船の比喩が含意しているのは、知識には土台は存在しないこと、また、全体が沈んでしまわないかぎり、部分的にはどの部分であっても修理をすることが可能であることである。

http://incognita2008.blog32.fc2.com/blog-entry-722.html

※要は、理屈の上では対応説ではなく整合説に立ちつつ、現実の世界では、政治問題・社会問題のより良い解決のために、実践理性の活用が取りあえず我々には肝要である(プラグマティズム)。

・・・というような纏めでどうですか?

しんり【真理】 ≪広辞苑

①ほんとうのこと。まことの道理。「不変の-」
②[哲](truth イギリス Wahrheit ドイツ)
(ア)意味論的には、命題の表している事態がその通りに成立していること。例えば「雪が白い」という命題が真であるのは、事実雪が白いときである。
(イ)真理認識の方式にはおおよそ三つの立場があり。
 命題(認識する知性)と実在との合致によって真が成立すると考える対応説。
 当の命題が整合的な信念体系の内部で矛盾せず適合しているときに真が成立すると考える整合説。
 命題や観念が実践的行為において有効・有益であるときに真が成立すると考えるプラグマティズム
 ほかに、「Pは真である」ほ命題Pと同義であるとする真理の余剰説などがある。
(ウ)倫理的・宗教的に正しい生き方を真理ということもある。

 

2: 初瀬蒼嗣 


>>1 Kさん
この命題で言いたかったのは、「正しい」という言葉の使用は、対応説においては「命題」を「実在」に「照らし合わせる」ことで成り立ち、整合説では、「命題」が「整合的な「信念」体系の内部」に「照らし合わせる」ことで成り立つという意味でしょうか。「正しい」という言葉は、照らし合わせて合致してるかどうかを検討してる場合に使用される「言葉」であり、「Aであることは正しい」という認識が起こる過程には「Aを~と照らし合わせる」という作業が行われているということでしょうか。

それはともかく、例えば、財布の中にあった1万円札が無くなってたとして、直ぐその横で自分に気がついていない友達が1万円を見てニヤニヤしているとします。こんな場面に出くわしたら「「友達が自分の財布から1万円を盗んだ」のではないかという推測は働きうると思いますが、仮にそれが実際にそうではなくても、人は「友達が自分の財布から1万円を盗んだ」ことは間違いないと思うことは、場合によってはよくあることだと思うんです。

「正しい」という言葉の使用には常にこの種の危険性が孕んでいると思います。プラグマティズムといっても考え方は様々ですけれど、プラグマティズムを提唱したパースは可謬主義を採用しています。自分達の考えていることは何かしら間違っている可能性が常にある、程度の意味でいいと思うんですけれど、「自分の言ってることは正しい」と思っている人の多いことったらないですね。まあ、自分もその一人なんだろうとは思いますけれど 笑。

 

3: K


>私は意見というものについての所有者について疑問を投げかけた。私の意見は果たして私の意見であるのかという問題があるが、私は私の蓄積した命題、そしてその蓄積に類する命題以外を恐らく提出できない。つまり誰かの言った言葉の真似をしていると考えられる


オリジナルはない。相互参照(CROSS REFERENCE)があるだけだ。
ただし、相互参照の複雑な束の中から偶然、少しばかりのオリジナルが浮かび上がることも極く稀にあるかも知れない。

と、私は考えています。

 

4: 初瀬蒼嗣 


>>3 Kさん

そうですね。おしゃるとおりだと思います。そしてそれが随分前の時代に誰かが言っているってことも同時にあるとは思いますが、ただたとえそうであったとしても、それを浮かび上がらせたという思考活動は、決して恥ずかしいものではないというのも思いますね。