日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【政治思想006】政党を論じる前に

my日本からの転載
2012年07月01日
【覚書】政党を論じることに関して

目次

 

 

政党や派閥について考察したい。主に自民党における派閥党争の背景にあるものに焦点を当ててみたいと思う。私は田中角栄すら、実感としてよく解らないところがある。私が物心つく頃の内閣総理大臣といえば中曽根康弘なので、それ以前の自民党というのはほとんどよく知らないといってもいいだろう。

 

特に自民党とは何かというものを考えなくてもよいのかもしれないが、これからの日本の保守というものを考えるに辺りある程度は抑えておきたいというのが本心である。

 

一般的に何かを考察するにあたり、私たちは何らかの「資料」に基づかなかればならない。ここでは少しだけ「資料」について考えたいと思う。

 


【政党や派閥を論じるための前提的諸解釈について】

 

ここでいう「前提的諸解釈」という言葉については、単に「諸資料」と置き換えた方が伝わりやすいかもしれない。

 

もう少し説明するならば、政党や派閥またそれを構成する人、それらおよび彼らの経歴や評価、それに関連した図や表、映像的資料などを指していると考えてもらえると有難い。

 

<補足>
解釈についての覚書


観念的世界ではなく、現実的世界における政党の力学

 

政党および派閥というのは、ただの概念として存在しているわけではなく、現実として生身の人間集団として存在しているものである。

 

私たちの生活は政党や派閥の存在から良かれ悪しかれ何らかの影響を受けている。

私たちが政党を論じるとき、ドラマやアニメ、小説や演劇を論じるような形でそれを論じるべきではないはずである。


複雑な論理、複雑な感情、複雑な環境の中での評価

 

政党および派閥の存在を前にして政治家も有権者も複雑な論理や複雑な感情が諸個人において巡らされているものである。

 

個人はこのような複雑な論理および感情をもった諸個人で構成された社会も含めた複雑な環境に取り囲まれているものである。

 

そういった複雑な論理や複雑な感情および複雑な環境を抜きに、幼児的手軽さを持って政党や派閥について論じることに些かの心情的抵抗を覚えるというのは告白せざるを得ない。


個人について論じるということ

 

政党や派閥について論じるためには、恐らく特定の個人について考えなければならない訳だが、特定の個人を評価することは科学的理論を評価することとは異なる。

 

その評価の妥当性を判別することは難しいと言わざるをえない上に、そもそもその評価が何を意味するのかすら実は曖昧な部分があるのではないかと思う。

 

私たちが具体的な個人の心情ないしは信念を評価するにしても、実際のところその具体的な心情や信念は彼のうちにのみ存在していたものであり、それを覗きこむことは不可能である。

 

また仮に如何に清らかな心情と信念の持ち主であったとしても、その現実に対する見通しや政策の内容如何によっては、清らかな心情も信念も空虚であると感じられるということも、まったく無謀なる害悪であるように感じる場合もあり得る。


政党・派閥の歴史か、政党・派閥の解釈か

 

過去の特定の人物について世間でも様々な評価をされているのであるが、現実的にそれが真実であるとか正しいなどという前に、一つの解釈とみなすほうがより正確であろう。

 

私たちはそういった諸解釈に立ち会うのであり、間違いのない真実や正しい事実に立ち会うのではない。

 

我々は歴史に触れるというよりも解釈を蓄積したものに、解釈を伝達したものに、解釈を表現したものに触れると言ったほうがむしろ幾ばくか正確であるような気がする。

 

しかしながらそれら諸解釈は全く意味がないものとは言えないだろう。

 

ひとまずは、私たちが何かを論じる前に、言い換えると何かを解釈する前に、私たちはその解釈したい対象の諸解釈に触れる必要がある。

 

過ぎ去った過去について思い巡らそうと考えた場合、私たちがそれら諸解釈を抜きに何かを論じることは何も論じていないことに等しいはずである。

 

私たちは一つに、それらの諸解釈に向きあう必要があり、二つにそれらの諸解釈を再解釈する必要がある。

 

三つ目にその再解釈のための前提的命題となる解釈を別のところから持ちださなければならないだろう。


複雑な論理、複雑な感情、複雑な環境を踏まえた行動

 

しかし私たちにとって徹底的に過去と向き合っていれば良い訳ではなく、解釈の結果得られた結論をなんらかの形で現実における諸問題の解決に役立てる必要があるはずである。

 

これについては諸個人の気質的なもの、あるいは諸個人の人生における計画表などに委ねられるだろう。

 

複雑な論理、感情、環境を前に行動するに際しては、私たちは何らかの前例、経験から得られたものを頼りにするより仕方がない。

 

これについての幾ばくかの前提は他の日記などでも示すことにする。


例証についての覚書
(※編集途中で大雑把だが、たとえば経験についてはこのような前提を考える必要があると思う。)

 

それはともかくひとまずここでは政党や派閥についての一般的な諸解釈および個別的な諸解釈を整理し、かつ再解釈できればと思っている。