日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【断片005】命題

my日本からの転載
2011年06月26日
命題

全ての命題は、それがどんなに科学的な命題であったとしても、詩的である。

 

全ての命題は、それがどんなに科学的な命題であったとしても、詩的である。

 

以下同記事のコメントでのやり取りを掲載

 

1: M

 命題はトートロジー(詩的表現のひとつ)の形態をとりやすいとヴィトゲンシュタイン先生がどこかでボソリと呟いていました^^

 然し乍ら,我々個々人の存在は常に互いにアポリアなので,二律背反に身を裂かれ自閉し黙り込むしかないのでしょう.「打破する道は理性の公共的使用だ」かなんかカント先生が言っていたような^^

2: 爽籟

確かに人間って言語を使うべき存在者だと思うし、詩的な表現として吟味する存在者であるべきだと思ったりも僕はするんですが、体系化が高度化すると、自分たちの「子供っぽさ」も手伝って、「うーん、確かにこの体系はすごいけど…全体としてその体系の根っこの部分ってどうなの?」って思う事ってあると思うんです。純粋な感覚、第一観、直観として。それは確かにアポリアが原因でもあるんだと思います。そういったものも含めた当惑というのはやっぱり人を沈黙に引き込むというのはあるんでしょうね。苛立たしいし、自己欺瞞的に感じてもしまうし、争うのも馬鹿馬鹿しくなってしまうし 笑。

沈黙の傍らでは、それとは反対にひたすら言葉が繰り広げられてもいる。それはひたすらにアドホックな、自己弁護、正当化などが繰り返されている意見であるというのは沈黙するものから見れば普通にそう見えます。反対意見の人からみてもそう見えます。それは動物的な寂しさ、あるいは動物的な集団心理の延長にも見えなくもなかったり…。言葉が、そこでは牙や手、爪の代わりに使われているだけのように見えてしまう光景なんていくらでもありますよね。

3: 爽籟

個人的に思うのは、どこまで言っても困惑から抜け出せない所はあるとは思いますが、「言葉」ゆえの、「記号」ゆえの困惑にすぎないものと言うのも確かにあると思います。これから学問とサブカルチャー(マンガとかアニメとかゲームとか)の接近がどんどん試みられると思います。それは一つの退廃とか堕落の形態にも見えますが(実際に退廃であり堕落であると言い切りたい気分に実際はなりますが)、結構私はそこに希望も見ています。案外そういったところから、近代的な学問の退廃、堕落の意味するものが見えてくるようにも思えるんです。

コメントの返答としては不適切だとは思います。すいません 笑。

4: M

>>3 爽籟さん

 不適切だなんてとんでもない!過度の謙遜は不要です^^

 文字だけでは書ききれないニュアンスを画にし,画では切り込めない端的さを文字で表した,,,のが漫画と私は受け止めています.漫画だけでは体感し得ない時間感覚を付与したのがアニメで,アニメにはない選択の自由を添付したのがゲームである,と.これら一連の繋がり物は,階層が進むにつれ余白が失われていきます.

 かつて学校で「文学は行間を読むもの」「絵は余白を鑑賞するもの」と教わりました.文と文の間,モチーフとモチーフの間,其々の書かれていない/描かれていない部分に,浮き上がってくる大切なものがあると.それを味わえと.
 「作品には直接的に表れていない作者の思いを読み取る」とか,「作者の真意や意向を感じとる」のように教わったものです.

 しかし,書かれた/描かれたものに関連して,行間/余白に浮かび上がってくるものというのは,実のところは作品の内容でも作者の意向でもなく,読み手/鑑賞者の経験や思想になると思うのです.何もないそこに浮き出てくるのは,実は己の中身なのではないでしょうか.
 人は,行間や余白の何もないスペースで,自らの来ず方を振り返り,自らの中身を見詰め直すもの,と思うのです.

 階層が進むにつれ余白を失うサブカルチャー,余白を失った人間は,どこで己を振り返り見詰め直せばいいのだろう.人はきっと,己を見つめ直さなくなった時,堕落するんです.

5: 爽籟

>Mさん

その通りですね。昔の人の文章と現代人の文章を比較すると、少々哀しい想いに駆られることがありますが、リテラシー能力という点で言えば、ラジオ、テレビ、マンガ、アニメ、ゲームなど、身の回りの環境が整備されていけばいくほど、落ちてしまっているような印象というのは個人的に確かにありますね。

認識の違いによる不快観というのはたぶんいつの時代でもあるんだろうと思いますが、単に衝動的に不快感を表明して、つまり罵倒したり、レッテルを貼ったり、そういう事をして自己満足して終わりというパターンがたぶんどこにいっても溢れているんだろうし、たぶん自分も大凡そういう人間なんだろうとは思いますが、そこで単に物別れというのは少し哀しい感じもします。あるいはもったいない感じといったらいいのでしょうか。もう少しお互いが相手と向き合ったり、自分と向き合ったり、そういう耐性が少し日本人から失われているような感じというのは実際します。たぶん、それはたぶん先人が実際に行ってきたそれと向き合うことによってある程度は解消されるようにも思うんですが、そういった活動といいますか、個人的な鍛錬といいますか、そういうのが廃れてしまうと、もうどうしようもなくなってしまうというのは実際はあるのかな?なんて感じることはありますね。当然にすべての先人が完璧だったなんて神聖視はしたくありませんが。

それはそうと、Mさんは頼もしい方ですね 笑。対話をしていて楽しいです 笑。

6: K

こんにちわ、おじゃまします( ^ω^)
哲学者系のコミュでお世話になっております、Kという者で
ございます。

うぉ…Mさん…退会されてしまった(;・ω・)

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六・一 論理学の命題はトートロジーである。

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P120より引用
論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン 野矢茂樹・訳)岩波文庫

Mさんが>>1で指摘しているのは、この部分のことでしょうか?。

コミュで何か発言出来ないかとこの本(←論理哲学論考)を購入しま
したが、ウィトゲンシュタインは散文ばかりで、(ぱっと見た感じで
すが)訳が分かりません…。自分で誤解に気付かずに、都合良く解釈
も出来てしまいますし…。やはり素人は解説本が無いとダメみたいで
す、無念(´・ω・`)


7: 爽籟

コメントありがとうございます^^。
ウィトゲンシュタインは確かに難解ですよね。特に前期に分類される『論理的考察』は私もよく解っていませんし、これからも完全にわかる日が来るとも思いません。ただ、ウィトゲンシュタインが序文で述べていたと思いますが、ウィトゲンシュタインの表現それ自体にも問題があるという考え方も、まあ失礼とは思いつつ 笑、感じることはあります。たぶん、これはフレーゲ、とかラッセルあたりに至るまで継承されてきた表現方法それ自体に問題があるように思います。ウィトゲンシュタインは後期に方向性を変えると言うか、視点を変えていくわけですけれど、そういう意味では私はウィトゲンシュタインははじめに中期・後期から当たったほうがいいような気がします。私自身よく解っていないくせにこんなことをいうのもどうかと思いますが、『論理哲学論考』を読んでウィトゲンシュタインに苦手意識を持ってしまうというのは惜しい気がします。安価なものとして出版されている『青色本』の方が取っつきやすいというのが個人的な感想です。後期の立ち居位置から眺めれば、前期についてもなんとなくですが、朧気に姿が見えてくる可能性が大きくなるのではないかというのが個人的な考えです^^。そもそも概念それ自体が訳語ですから、その訳語の使用を知らない外国人である私達にとって意味を読み取りにくいのは当然だと思います。そういう点からみても、個別的な概念について中・後期のほうがより丁寧に扱っているので面白いと思いますよ^^。

8: 爽籟

Mさん、残念ですね。
my日本の中の右側特有のとは言えないのかもしれないけれど、やれ工作員だのなんだのというレッテル貼りには、極まれに触れる機会がありますが、うんざりしますね。内容がないと言うか 笑。

まあ、気が合う相手とちらほら議論を交わせる機会があればいいというスタンスの私としては、関係のない話なんですが 笑。まあ、少なからず日本の左には当然問題多しとは思いますが、右も五十歩百歩かなと嘯きたくもなりますね 笑。こういうことを言うと、まあ、叩かれる可能性が生まれるわけですが 笑。

9: K
再びこんばんわ。

■>>7 爽籟さん■
爽籟さんでも、ウィトゲンシュタインは難しいですか…。
解説本と本人の著作は中・後期からちょこちょこ漁ってみます。アド
バイスありがとうございます。
青色本」は筑摩から文庫版が出てましたね。機会があれば購入して
みます。その前に図書館で何か探してみようかと思います。全集がま
るまるあるようなので頼もしいです。解説本も飯田隆さんが色々出し
ているものの蔵書があるようです( ^ω^)

その後の思想の流れもさっぱりです、すみません…。
フレーゲについては、僕が苦手な論理学の記号の元ネタを作った人程
度しか知りません…。ラッセルについても「人と思想 ラッセル」(金
子光男 清水書院)という思想にはほとんど触れていない紹介本を読
んだだけです…。僕にとって分析哲学は道の領域です。

ひそひそ…科学哲学と分析哲学の区別がよく分からいレベルだったり
します。分析哲学という大きな分類の中に、科学哲学や言語哲学があ
るのかなぁ~と思ってます。


■>>8 爽籟さん■
右派左派ともにありますね…。どちらも問題有りです。

右派に関しては疑問を持つ人を工作員として排除してしまう空気があ
るのは僕も感じておりまして、my日本内でも何度か見かけました。
明らかに懐疑論者であるだけなのに工作員扱いされたり、右派のご機
嫌取りしているが、行動が妙にあやしい人を愛国者としていたりと、
ちょっとなんだかな?という気持ちです。
明らかに工作員という人は居まして僕も加勢した事がありますが(そ
の方は本当に荒らしだったらしく強制退会処分)、この手のは冤罪だ
らけです。

左派で僕が見た光景は、ツイッターでとある女性を「我々はマイノリ
ティだ!この女はマジョリティだ!」とエセフェミが集団リンチして
いるものでした。これも右派のそれに何となく似ています。
最近ではリベラルの小倉秀夫さんにまで、その似非フェミは集団で攻
撃をしかけていました。あれではまるでゴロツキです。

他には、ミーゼスはファシズムを左派に分類したりする光景も。

ただ、僕の意見は右派左派の思想は関係無く、元々「その気」がある
人がどっちの思想を(自分の欲望のため)用いるか・どっちの側に付く
か、だと考えております。
my日本の場合は中国や半島を叩き、日本文化を称賛する投稿をする
だけで「愛国者の顔」が出来てしまうので、その辺は危険だと思いま
すよ。それを指摘しても「争っている暇は~」で封殺ですから、何か
大事が起きるまで自浄作用が働きません。

ちなみに僕はMさんが工作員反日とは思っておりません。
日記を見た事がありますが、かなり懐疑的な方ではありましたが、お
かしな発言はされていなかったかと。

10: 爽籟

コメントありがとうございます^^。
僕自身は、全く専門として哲学を学んでいる人間ではありませんので、すべて我流の解釈ですね。哲学に関してはそれでいいと思っています。後期にウィトゲンシュタインが提出した命題の多くは前期の命題に対して何らかの批判的側面を持っているものも多いと思います。同時にその前期の命題も後期の命題に対して批判的な側面を持っていたりするように感じます。前のコメントでウィトゲンシュタインが『論理哲学論考』の前書きに少し触れましたが、それはウィトゲンシュタインの落ち度と捉えるよりは誠実さの表れと捉えたくなりますね。

工作員」というレッテルが実際に貼られている対象が一体どんな人々なのかはネット空間の特徴ですけれど、彼らの実像が見えないというのがありますからなかなか苛立たされることはあるんじゃないかなと思います。

例えば、ざっと思いつくものとして、保守系の言語空間に張り付く「工作員」とかそういう風に感じられているような人々の実像を想像するに、

他国の政府や公的機関から実際に命令されている人

他国の文化的背景を色濃く受け継いだ他民族

戦後の価値観や価値体系の影響を色濃く受けた自民族(日本人)

保守派の言語空間に否定的で、混乱を起こして楽しむ者

敢えて自分の価値観と違う価値観を強調して保守派の言論空間を探る者

懐疑主義的ではあるが保守論を模索する者

保守思想における立場が単に異なる者
(例えばリベラル派、民族派、誰々の信奉者ないしは支持者などの間での対立)

等々色々思いつきますが、少なくとも自己懐疑を行わないで自分と意見が反する人々が全て工作員なんだと言われたら、「そうだな、お前のなかではそうなんだろうな。」と2ch流に呟きたくなりますね。色々想像できるのにそういった示唆も行わないで、単にレッテル貼りをしているだけならば、「貴方も自分が批判しているサヨクと何も変らないのでは?」と言いたくなるけど、まあ、話は通じないんでしょうね。自分にもそういったレッテル貼りじゃないけど、誤解ばかりしている人間ですから他人をあまり批判したくはないですが、虚しい気分になる事はやはりあります^^。

Mさんは僕にとってかなり魅力的な方だったんで退会された件につきましては残念でしたね。あまりこういうことはいうべきではないかもしれませんが、それでも一定の距離感を保ちたかったというのも実は本音としてありました。だからそれほど論を交わしたことはありません。最後にアドレスを残してくれましたが、今は接点はありませんし、連絡を取ろうと思っていません。悪い意味でなくて自分には正面を切って対話する自信がなかったんです^^。彼女の方でもこちらの感覚を察してくださっていた感じもしました。一筋縄ではいかない感じで素敵な方ですね^^。そういう女性を扱えないようじゃきっと保守派じゃないんじゃないかなと茶化したくはなります。自己反省を含めて 笑。