日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学008】意志論2

my日本からの転載
2011年05月22日
意志論草稿②
mixi日記
「意志について⑥」2011年04月30日
「意志について⑦」2011年04月30日
「意志論についての端書」2011年05月02日
「意志論についての戯言」2011年05月19日

われわれはこの虚像によって、様々な像を様々に見較べることによって種々の像の関係性を構築するのに役立てたりする。そしてまた、その出来上がった像の関係性は諸個人によって差異が存在する。

 

つまり相対的に他の視点から見れば偏見であるのが常であるのだ。

 目次

 

 

境界設定という虚像

 

話を境界線設定論に戻す。私と私のその環境に関わる境界線設定というのは言語活動の背後に形成されている論理的に物事を扱うための像の一つとして浮かび上がりうる。

 

しかし、忘れてはならないのは、この言語の背後にある像というのは一つの虚像であるということだ。いくつもの像を思い浮かべるなかにあって、その各々の像の関係性を模索する上での虚像なのである。

 

われわれはこの虚像によって、様々な像を様々に見較べることによって種々の像の関係性を構築するのに役立てたりする。そしてまた、その出来上がった像の関係性は諸個人によって差異が存在する。

 

つまり相対的に他の視点から見れば偏見であるのが常であるのだ。

 

論理構築と境界設定

 

私はこの言語における安易な境界線の設定を否定しない。人間が論理を構築する場合、この種の像は全く不可避であり、この種の像を用いないで論理を構築することなどできないと考えている。

 

ロジカル・オペレーションに見られるような像、ベン図に見られるような像、このような像は必然的に論理に組み込まれるのである。しかしわれわれにとって像はこういった種類のものに限らないということもはっきりと自覚すべきである。

 

意志というものを捉える時においても、境界線設定に拘り続け、それに固執することによって生じる矛盾は、全く別種の像を用いることによって、全く異なった世界をわれわれは見いだしえる。

 

意志というものを考える場合、ロジカル・オペレーションやベン図のような像とは異なる像、例えば流動的な粒子を想像する時に頭に浮かぶ像、そういったものを想起することによって別の見え方もわれわれにはするのである。

 

「意志」の物質論的考察

 

はじめに述べたように物質論的な意味での意志への言及は必要である。われわれの身体も脳も物質によって構成されている。われわれの肉体は細胞の集合体であり、その細胞の中には染色体が存在、その中にはDNAが存在する。

 

神経細胞の刺激の機制、感覚器官の機制、あるいは脳細胞の機制など、意志を考えるにおいてはこのような科学的な機制にもわれわれは言及しなければならないし、原子や素粒子においても、われわれの意志となんら関わりがないとは言えないのである。

 

自己が見ている実際の世界、自分の内部において様々な刺激が展開していることによって見えるクオリアについて、科学的に知識と照らし合わせて説明することはこれからも恐らく困難であろうと思われるが、このような科学的に観察されてきた様々な像が意志に関係がないとは言えない以上、意志について考える場合、このような科学的知識を活用することは必要である。

 

残念ながら私にはそのような込み入った知識はほとんどないと言わざるを得ない。しかし、それに反してそのような知識が必要であるということは揺るがないと認める他ない。

 

 

「意志」と環境論

 

私とその環境と言った場合、論理の像として、「私」と「その環境」という二つの用語の関係性の言及になる。単純にこの命題からは単に「私」と「その環境」しか表現されていない。

 

この構図に対して不出来であるということは確かにいえるが、先にも言ったようにこのような構図と関わり続けるのが、言語を用いる人なのである。

 

そしてまた、単純かつ不出来であるが構図、そこから論理を構築するためのレイヤー、下地として利用できる。

 

私は「意志は自己に関係するものと関係する。」というのは一つの前提としてあげているが、関係の程度という仮想を思い描ける。

 

非常に単純な構図であるが、例えば、幼少期における両親との関係性とその時の全く違う国に住んでいる全く知らない人との関係性の差異をわれわれは見いだしえる。

 

これが例えば幼少期における両親との関係性と、数億年前の地球の状態との関係性を比較したとする。この比較からわれわれが得られるものは恐らく何もない。

 

どちらも自己と関係するが故に意志と関係ないとは言えないだろうが、こういった比較はすべきではないだろう。

 

極端な例を挙げたが、われわれはそういった様々な像を照らし合わせることもできるため、その自己と環境の遠近感すら掴めないというのも言えるだろう。

 

したがって、スピノザのように境界線をすべて撤廃し、遠近感も排除して、究極的に表現するというのは理解しやすい。

 

 

神が人間のように身体と精神をもち、感情に隷属していると想像する人たちがいる。しかし、彼らが神の真の認識からいかにはなれているかは、すでに証明したことから十分に明らかである。私は彼らの意見をとりあげない。

 

なぜなら、神の本性について少しでも思いめぐらしたことのある人々は、みな神が身体をもっていることを否定するからである。彼らはまたこのことを次のような論拠からもっとも証明している。

 

すなわち、物体とは、長さ、幅、深さをもち、一定の形に限定されたある何らかの量のことであって、このことを、神、つまり絶対無限の存在者について論ずることほど不条理なことはないということである。

 

          スピノザ『エティカ』
           第1部 神について 定理15―注解より

 

 

 

さて、話を大きく変えよう。

 

具体的に私というものを考えたとして、私はどういった存在であるのか考えたとする。

 

このことの十全な解答など必要はないが、個別的に色々考え得る。

 

例えば日本人であるとか、日本語を話すとか、どこどこ出身であるとか、名前は誰それで、親は誰それだなど、具体的に「一つの生」を生きている私、あるいは自己というのが存在する。

 

そこには日本列島におけるどこどこの地にいて、いつもそこで寝起きしているという自分が存在する。

 

何時に起きて、何時に仕事に行き、何時に帰宅し、何時に寝るという単純な繰り返しとは言えないだろうが、そういった日常を生きている一人の自己というのがいる。

 

この具体的に今を生きている自己において様々なことを考え、判断し、行動している自己というのがいる。自分の生活について、あるいは他者の生活に気を遣いつつ、様々なことを思いめぐらせながら、遊んだり、恋をしたり、ボーっとしたり、お酒を飲んだりと、人は日常において具体的な生を生きている。

 

この時の自分の考え、あるいは判断、行動というのはどういったものであろうか?

 

 

「意志」の性質の図式的分類

 

意志――個人性←→集団性

集団―国民性、地域民性、歴史性、現代人性、家族性

個人―個人の意志の顕在性と潜在性

 

人々の「意志」との個人的な関わり

 

われわれが他者の意志を正確に測り知ることはできない。

 

しかし、観察すること、支えること、影響しあうこと、見つけ出すことなどできる。

 

個人の意志を注意深く見守ることの怠惰

われわれは多くの個人の意志を注意深く見守ることはできない。

 

 

自分自身を信じるということ

 

力強い意志の源としての自信

自分を信じている時あるいは自分の行動や目標を信じている時、人はある種の高揚感ないしは集中力を発揮しえる。抑鬱感からの解放。

 

自己不信の中から得られるものもあるだろうが、そんな時でさえ、自己不信の根底にも幾ばくかの自信が存在する。

 

自信を継続的に持ち続けるということ。

 

自信を継続的に持ち続けるための個人の環境のあり方。

 

われわれは個人の環境の整備、インフラに言及できる。

 

自分を信じるために――目的の奈何に関わらず、自分の位置づけが漠然とであれ関係する。思考における自己の位置づけ。

 

自己をどのように位置づけるのか、あるいはどのように位置づけるべきかなどの議論はよくよくされてもよい。

 

われわれは自信と同時に懐疑も持ち続ける必要がある。

 

われわれは必然性を見出すために仮説を立てて、この必然性を展望しなければならない。

 

 

国民の意志とは

 

意志についての私の言及ないしは主題はこういってもよいかもしれない。

『国民の意志』

 

 

私は必然性を展望しない一切の理想主義への敵対を宣言する。この宣戦布告は自分でも言い過ぎのようにも思えるが、敢えて道化師よろしく布告する。

 

 

「意志」のエネルギー

 

「意志」の「有無」などさほど大きな問題ではない。

 

「意志」について論じるということは、必ずしも「意志」の「存在」を前提としていない。「意志」について論じることは、われわれの「意志」の幻影を描くことである(これについてはより詳細に記述する必要があるだろう)。ここでいう「存在」というものすらわれわれは指示しえるのか、私には疑問でもある。

 

「意志」論というエネルギーが、「意志」について論じることに込められる期待であろう。一つの力学的な運動であり、仕事であり、「精神に対する働きかけ」という名の力学的な働きへの期待である。

 

私は最近、意志論というものに興味があるが、それは単に「哲学的な」つまりプラトニズム的な、あるいはユダヤキリスト教的な伝統に乗ったあの西欧趣味の記述形式にとどめたくない。むしろ、合理主義的な観点から見て品位を欠き、より詩的なものに発展する可能性に期待しているところはある。

 

この時期に書いた参考にしたい日記

「戯言」2011年05月14日

 

あらゆる図式に基づく統合に対して、否応なく突きつけざるをえないのが、私の場合、それを否定することである。

 

そしてその否定の論拠も、そのあらゆる図式化の内に入る統合の形態なのだ。

 

こういった思考の慣習によって、私が提示する全ての命題は否定される可能性があることを前提としている。

 

一つの思考の形態として、自己陶酔と自己憎悪の感覚が平行して存在しうる。

 

自らが発した陶酔は、否定されることによって憎悪されるが、その否定という行為そのものもまた陶酔なのであり、それもまた憎悪の対象となりうるので、結果的に自己陶酔と自己憎悪を同時に発見するにいたる、ということを人は発見しうる。


人は未来を知らない、また因果も知らない。しかし、人は必ず自ら因果律に歩み寄る。そこには精神における落ち着き、つまり安心したいという願望、むしろ衝動というべきだろうが、そういった精神の働きが関わっていると単純に感じられる。

 

 

発現された言葉が、もし単純かつ整然とした前提のもとに付与されたものであるとしたならば、必ず否定の余地がある。それとは逆に、発現された言葉が、複雑かつ乱雑とした思考から発せられたとしたならば、それも必ず否定しうる。

 

しかし、それが哀しむべきことだと言えるだろうか。否定しうるということは本来、否定しえない一切のものよりもずっと健全であったのではないか。

 

 

「落書き程度の内容」2011年05月17日

 

「…という前提に基づいて考えれば、~」と仮にこのように人が言ったとする。その論理の道筋とは別に、この論法を敢えて提示することには何らかの戦略があると感じる。一つの手駒としての文法形式。この手駒の効果とはどういったものだろうか?

 

一つに、この手駒を出す時、相手がこの文法形式の手駒の使用をどのように考えているのか、あるいは考えていないのか、所有しているか、いないか、という条件によって役割は幾ばくか異なってくる。

 

手駒というが、実際は「盤(あるいはボード)を示す」ような一手。同様に盤の外にあるものも暗示する。

 

「盤を示す」事によって、そこから更に提示する事柄はその盤によって制約を受ける。一つの戦略として、自らに制約を課すことによって、相手にも制約を課すことを目的とする。必ずしもその「前提」に乗るとは限らないが、乗らない場合の効果という期待も存在する。

 

棋譜と散文の類似性)

 

散文は確かに一つの連なりであるが、そこには別に書き得た文章すら浮かび上がりうる。たとえば、対局時の思考のように。

 

一つの効果…相手にとっての正しさとか、真理、そういったものが、実際はある前提の上での正しさであり、真理であるに過ぎない、ということを示すことを狙っている手筋であることは十分にある。

 

ある程度笑いながら対話が可能であるためには、同じ盤上における(あるいは同じ前提上といえる場合もあろうが)手筋の見せ合いが成立している場合である。少なくとも「共感」というものが何がしか関わっている。

 

それでも人は反目しあう事さえも、共感しあえる。