日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学021】社会科学における例証

my日本からの転載
2012年07月05日
例証についての覚書

目次

 

 

社会科学の領域について考察する上で

 

私たちは、人類的規模において、あるいは国家において、あるいは会社や家族といった小集団において、あるいは個人において、何か良くない状況を打開したいとか、より発展することを期待したいと思うことは多々あることだろう。

 

社会科学における例証について

 

このような状況に際して、私たちは何らかの具体的な例を引き合いに出すことによって、その状況を克服するのに妥当であるか、あるいはそうでないかと予想を立てるに違いない。

 

このように例を思い起こしたり、引き合いに出したりする方法を、私たちは一般的によく使う。このような方法を指してひとまず「例証」と呼ぶことにしよう。

 

社会科学と自然科学の例証

 

社会的なこと、人間活動にかぎらず、自然科学、例えば物理学や化学あるいは工学の実験などでも具体的な何らかの前例を足がかりにするということは想像するにそれほど難しいことではないに違いない。

 

様々な事例と共に見出される理論

 

換言すれば、如何なる事例においても、そういった具体的な例、前例から理屈や論理を導き出すという方法から大きく逸脱しているものを見出すことは難しいように思われる。

 

私たちは先に経験した何らかの現象を何らかの形で足がかりにして物事に応じている。

 

歴史的な事例・法解釈の事例など

 

もう少し説明を加えるなら、行政機関などにおける政治的な判断を行なわなければならない状況に際して、歴史的にどのような方法が取られたとか、法的解釈はどうだったとかなど、過去に類似したケースを思い起こしたり、資料を掘り起こしたりするという方法はよく見られるだろう。

 

無関係な事例からの類比

 

公的なケースにかぎらず、プライベートな時間における判断を行なう状況に際して、心理学に基づく考えを参考にしたり、少し飛躍的だが一見関係無さそうだが物理的な法則から考えを用いたり、その状況に類似した前例や、あるいはその状況に役立ちそうな図式を用いて説明したりすることは十分に考えられることである。

 

このように例を用いて論理を組み立てるという方法は、一般的によく見られる論理的方法であるように思える。

 

未来に関する期待値・予測

 

しかしながらあくまでも、人類における、あるいは人間活動における未来図や確率、結果どうなるのかという期待値は、数学を用いた計算式から的確に導き出すことは絶対にできない。

 

私たちの様々な予想はあくまでも大雑把なものであり、私たちの予想とは結果を知ることができるという代物ではない。私たちが用いる前例や事例あるいは法則や図式というのはあまりに頼りないものである。

 

前例・事例・法則・図式を元にした例証

 

しかしながら同時に私たちはこの頼りない前例、事例、法則、図式といった経験によって得たものくらいしか頼りにできるものもないのである。例証とはそういったものであろうと思う。

 

このような方法を大きく逸脱した方法を私たちは持ち合わせていないし、これからも人類はそのようなものを獲得することはないだろう。

 

予測が的中するまたはしない可能性

 

そうは言いながらも、これらの具体的な例による予測や予想はそれなりに当たるかもしれないし、ある程度計算可能な場合もあるだろう。私たちが安易に予想するもの、あるいはできると考えるものの中には見当違いの予想や予測も同時にありそうなものではあるが。

 

私たちは頼りない方法、大雑把な方法を頼りにせざるをえない。場合によってはこのような方法は、私たちを深く固執させるものになる場合すらある。私たちは時にこのようにすることこそがベストであると考え、その前例や経験にのめり込み過ぎた結果、周囲が見えなくなり失敗に至るということもあるだろう。

 

私の説明は十分ではないかもしれないし、適切ではない部分もあるかもしれない。しかしここまでの説明はあくまで普通の前提として普通に挙げられるべきことであると私は思う。

 

日常生活における会話や議論と例証の問題

 

ただ、一般的に日常において、このような前提や前置きを会話や議論に盛り込むことは、曖昧に表現されたり、忘れてしまったり、考えていなかったり、なんとなく隅に追いやられたりしているものであるように思う。

 

特に急を要し簡単な説明が迫られる状況においては、こういった考えを提示することは回りくどいし、話の腰を折るものとして嫌われるだろう。

 

そういった鬱陶しさを人間が、特には現代人が感じてしまうというのは当然のことのように思える。

 

 多忙なる社会・コミュニティ


コミュニティとは何かという点については一先ず置いておくとして、私たちは様々なコミュニティに何らかの形で関わっているが、現代のコミュニティの一つの特徴として何らかの形で多忙を迫られることが多いように見受けられる。

 

多忙な状況の中での例証

 

私たちはこの多忙ゆえに、前例、事例、法則などを提示するものも簡易なもの、また照らし合わせるそれらの対象の数の絞り込みを迫られる。

 

たしかに多忙による作業の自動化、言い換えると体に染み付かせるという方法は一面的に極めて有用であるように見える。この点は否定しがたい。

 

しかし場合によっては目が届かないところ、深く考える必要がありそうなところ、説明に時間を費やす必要がありそうなところ、利益がはっきり展望しがたいようにみえるところについては追い打ちをかけるかのように更なる杜撰さをもって当たらざるをえなくなるだろう。

 

社会における損得勘定と多忙

 

実際に見返りのはっきりしない点について熟考することはなんらかの意味で確かにナンセンスであるように感じる。この点についての是非は難しいところであると思うが、しかし多忙を極めるとこの問いを立て検討する時間が奪われるということは言えるのではないかと思う。

 

私たちはなんらかの意味で多忙の中に身を置き、そうすることによってなんらかの意味で充実感を味わうこともできるだろうし、何かを獲得できるかもしれない。

 

しかしコミュニティが過剰に多忙の中に放り込まれることによって、私たちは問う機会を失い、そうすることによって何のためにその前例、事例、法則に従っているのかすら解らなくなってしまう状況を生みかねない。

 

倦怠と多忙の中を生きる現代人の特徴

 

現代人はとてもじゃないが怠惰とは言い難いが、怠惰でないが故の怠惰を引き受けてしまっているようにも感じる。私たちが安易に非難する人々は恐らく多忙であろうし、場合によっては皮肉的な意味合いも含めて言えば非難するのもかわいそうなくらいに多忙なのではないかとすら言いたくもなるが、現代人に特有の多忙人間はそうすることによって、自分の行動の意義を失いかねないようにも思う。

 

社会における対策や政策と事例・法則

 

私たちが何らかの対策なり政策なり対応なりを考えるに当たり、その対策、政策、対応するに相応しい前例なり事例なり法則なりを導きださなければならない。

 

義務としてではなく不可避なこととして導きださなければならないという意味であるが、この不可避的な重ね合わせという作業、必ずしも単に自律的な作業とは言い難いであろう、自己疎外としての作業とも言える部分はあるかもしれないが、それはともかく、この重ね合わせの作業に対して適切かどうかという判定は余地として十分入り込みうると思う。

 

前例を踏まえた上で

 

例えば前例が導きだしたと考えうる結果は望ましいものではないであろうとか、前例が導きだした結果は外的要因のため今回は望めないであろうとか、前例と考えている出来事は伝え聞くものであり実際は不正確なものであるとか、前例とこの度のことは一見して類似しているが凡そ全く異なるとか、様々な見当が付け加えられうるだろう。そしてどんなに検討したとしても期待した結果が必ず望めるという証拠にはならないと言えるに違いない。

 

思慮が深い検討と思慮が浅い検討

 

しかしながらこのような検討を逆に行わないとしたならば、おそらくは単純に言って思慮の足りない対策しか導き出せないに違いない。思慮深すぎるのも問題だろうが、無思慮であるのも問題であろうと思う。

 

遊ぶものとしての人の平衡感覚

 

残念ながらこのバランスの均衡がどこにあるのかという回答すら人は大雑把に判断するより仕方がないが、しかしその判断こそが「遊ぶものとしての人」にとってやりがいのあることなのかもしれない。

 

このような前例、事例、法則に対する検討を一人で行なうのであればともかく、コミュニティ、つまり認識を必ずしも共有しているとは言い難い人間集団の中で検討される場合には更なる難点が浮き彫りになると思う。それは独立した諸個人、他人が感じているその感じを直接体験できない諸個人という関係性によって特に注意深く見ていく必要があるのではないかと思う。