日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学028】レトリックと政治的諸活動

2013年03月05日
【覚書】修辞
【転載】

私たちの言語活動が、余りにもだらしがなく、余りにも幼稚であると仮定したならば、政治的な停滞ないしは堕落という一つの現象というものを目の前にした場合、特に驚くべき結果ではないと捉えられるのではないか。

目次

 

 

レトリックという否定的に解釈される用語

 

以前に対話した方に「P*1という人物は純粋な人間であり、レトリックで飾ることがない人間である」と言われたことがある。

 

「純粋」という言葉と「レトリック」という言葉にどんな印象を抱くのかについては人それぞれだろうし、またその時々によっても印象が違うかもしれない。

 

この方は少なからず、基本的には「純粋」であるということに対して「良い」という印象を、「レトリック」には自己と他者の別を問わずに「欺き」の印象を抱いていたのではないかと思うが、個人的には「純粋」という言葉から「幼稚さ」や「単純さ」あるいは「非現実的」などといった印象を抱きうるとも思うし、「レトリック」にも「表現へのこだわり」という印象も抱きうるとも思う。

 

修辞学と修身学という概念について

 

レトリックというと修辞という漢字がすぐに浮かんでくるが、辞(言葉)を修めると書くように、辞(言葉)というのは修まり難いものであるという印象を抱く。

 

修辞という言葉とは異なるが類似する構造を持った言葉に修身、身を修めるという漢字も記憶から引き出されるが、この「修身」という言葉は戦後においては「悪い」ものとして扱われてきたというのは言うまでもないことのように思うが、同様に「修辞」という言葉にも上記の「欺く」ものという印象などから敬遠される傾向にあるのではないかと思う。

 

いいやそれだけではない。敢えて言えば直接的な利益、現代的な感覚として真っ先に思い浮かべる利益、つまり金銭との関係性故に「修辞」には尚、悪い印象を抱かせる作用があるのではないかと思う。

 

修辞学・レトリック・言葉の復権を求めて

 

私は「修辞」こそが最も早急に取り戻さなければならない人間活動の根底にあるべき活動の一つであると敢えて言いたい。修辞というと単に「言葉」を扱うものであるという風には単純に捉えるべきではない。

 

「言葉」とは一つの表現であるが、常に「言葉」には言葉の指し示す「対象」というものが関わってくる。私たちの関わるべき問題のほぼ全てがこの「対象」であり、この「対象」は「言葉」によって表現されるのである。

 

「修身」についても同時に取り戻すべき活動と言うべきであるが、「修身」に先立つべきものこそが「修辞」に違いないというのが私の考えである。

 

アメリカ起源のプラグマティズムの言葉と対象への関心

 

言葉と対象という二つの言葉を並べたとき、『ことばと対象』という著作を残した人物のW・クワインの名前を思い浮かべるが、この言葉と対象について最も積極的に関わってきた思想の一つがプラグマティズムという思想活動であったと思う。

 

プラグマティズムの考察はいわゆる記号論というものに至るのだが、「修辞」というものを考えた場合、「修辞」の基礎をなしているのは何かといった問いが思い浮かぶ。

 

私たちがこの問いに何らかの解答を見出そうとした時、一つの方向性として、いわゆる(パースなどによる)記号論ないしは(ソシュールの)記号学といった考え方が一つのヒントになると思う。

 

修辞学における文法・意味・使用の重要性

 

「修辞」の基礎となるものとして、加えて、言葉における「文法」というもの、言葉の「意味」というものについても言及されるべきだろうし、同時にその「使用」というものにも言及されるべきだろう。

 

言葉の堕落つまりレトリックの衰退が政治の衰退に通じている

 

私たちの言語活動が、余りにもだらしがなく、余りにも幼稚であると仮定したならば、政治的な停滞ないしは堕落という一つの現象というものを目の前にした場合、特に驚くべき結果ではないと捉えられるのではないか。

 

この点について事細かに説明することはここでは避けることにしよう。驚くに足りないというのは、同時に、言い換えると政治的な停滞ないしは堕落を目の前にしてそれを嘆いて見せたり、非難してみせたりすることは余りにも単純な反応ではないかということも意味する。

 

そうはいってもそれと同時に殊更政治的な停滞ないし堕落という現象に対して嘆いたり非難したりすることに対して、嘆き、絶望したとしても何も始まらないというのもまた同時に言えそうである。

 

私たちは、私たちの基礎に置くべきもの、それはどうしても「修辞」という形に至ると思うのだが、そういった言葉を修めるという活動を、その活動がどうあるべきかということについての考察を、長らく看過してきたとは言えないだろうか。私たちが目にする多くの言葉の羅列をよくよく考えて見た場合、その全てとは言わないが、その多くが、もしかすると無意味の羅列であるのかもしれないとすら思う時があるのだが、しかしながらそのような「無意味である」という状態を前にして恐らく人は自覚的か無自覚かはともかくとしても、我慢ならないという感覚を強くかあるいは薄らとか感じざるをえないに違いないということは思う。

 

そういった一つの苛立ちから生まれてくるものが無意味ではないと言い切れる確証は少なからず全くないとも思うのだが。