日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学004】なぜ私は記号論を支持するのか

my日本からの転載
2011年01月02日
何故私は記号論を支持するのか
mixiからの転載
2011年01月01日

恐らく彼ほどこの学問と呼んでいいのかどうか解らないような形而上学を発展させた人物はアリストテレス以来後にも先にもいないと私は思う。彼が形而上学というものと格闘する中で浮かび上がってきた一つの展望が記号論だ。

目次

 

 

はじめに

これも正月に書くような主題ではない。

 

まず単純に数学というのがあるが、数学は論理学を包括するかという疑問が私には生まれる。それとは反対の事も考え得る。つまり論理学は数学を包括するかという疑問も考えることができるだろう。敢えて私が導き出した結論だけを言うなら、そうは言えないということだ。

形而上学Metaphysicsとは何か

日本人にとっては馴染みの薄い一つの学問の名称がある。それはいわゆる形而上学というものである。

 

そしてまたこの学問という形を与えられているが、実際のところこの形而上学という用語の定義は多様であり、日本人にはなかなか捉え難いどころか、私が思うにこの形而上学を考察してきたかつての西洋の偉人達も恐らくよく解っていなかったと思う。


この形而上学というものに近代になって一人の哲学者が凄まじい情熱をもって挑んでいる。それがアメリカの哲学者C・S・パースだ。


恐らく彼ほどこの学問と呼んでいいのかどうか解らないような形而上学を発展させた人物はアリストテレス以来後にも先にもいないと私は思う。彼が形而上学というものと格闘する中で浮かび上がってきた一つの展望が記号論だ。


さて、先ほどの問いに戻る。この記号論というのは数学を包括するか、そしてまた論理学を包括するかという問いを見出すことができる。

 

少なくとも言えることは記号論とは、この数学的思考や論理学的思考を包括するような展望を持っているということだ。


敢えて言えば、それまで切り離された数々の学問を縦横無尽に論じるために必要なものに光が当てられたといっても私は言いすぎではないと思う。


喩えて言うならば、数学でもない、そしてまた論理学でもない、そしてまた心理学でもない、そしてこれもこの領域では重要だと思うが解剖学でもない、そしてそれは何か重要そうな、それでいて得体のしれないものそういった領域に人が足を踏み出す可能性を拡げたと言っても言い過ぎではないだろう。


恐らくこの領域に足を踏み出すのは非常に困難だろう。しかし、おおよそほぼすべての人間が気がついているだろう(何故なら芸術というものが明らかにこの領域の重要性に気づき示唆している)この領域には人は足を踏み出さなければならないだろう。


それは強固で打ち破らなければならない独断を、誰もがそれを打ち砕かなければならないと知りつつもその方法を見いだせないような偏見を打ち砕く鉄槌になるかもしれない。


その思考形態が長く続けば恐らくその思考慣習に縛られている人々の生活は退廃するかもしれないという時に、もしかするとただ唯一と言ってよい処方箋を打ち出す鍵になるかもしれない。私はそれくらいに記号論は重要だと見ている。

日本の社会科学とC・S・パース

これは書く必要はないかもしれないが、所謂社会学の方面の思想家にあって政治・経済・社会・文化に対して記号論の重要性をはっきりと指摘している人物は、私は西部邁以外知らない。


つまりこれは希望的な観測などでは全くない。この事に気づくに当たって一つの重要なある点にわれわれは気づく。それは一体誰がこの展望を知り得るかという大問題である。ほぼ誰もいないのだ。


私は踏み出さなければならない領域があると表現した。

 

しかし潜在的に人々ははっきりとそれに気づかない不安を感じているにも関わらず、その領域に足を踏み出すことができないのだ。そして仮にこの領域にはっきりと気がついたとしても、この領域に足を踏み出そうとしても決して足を踏み出すことはできないと見なしてほぼ間違いない。


それは単に個人的な苦悩、焦燥、孤独、そして絶望故に足を踏み出せないのではない。この新しい道を切り開くものには援護射撃してくれる人はまずいない。それどころか彼らを後ろから撃ち殺そうとしているかのような行動を取ることだろう。


それくらいにこの道は険しい。ただ、私としては支持しない理由は全くない。