日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学005】ヒトという生き物と言語

my日本からの転載
2011年02月27日
戯言
mixiからの転載
2011年02月24日

人類は必ずしも、原始的な時代から「言語」を凝視していたかというと極めて疑問を感じる。必ずしもそういったことが他の様々な人間の活動に増して優れた活動だ、などとは私は正直思わない。

 

しかしながら、人類は「言語」と向き合わないが故の困惑を絶えず持ち続けてきたという事くらいは言えそうな気がする

目次

 


言語行為を行うものとしてヒト


私が貴方と何事かをやり取りするにあたって、その中心的な、もっとも大きな役割を担うのは「言語」である、と思う。確かに微笑みながら話すことと険しい表情を持って話すことによって、会話はたとえ同じ言葉を用いたとしても印象は異なるとは言える。


そしてまた、私はそれが全く重要ではないとは全く思わない。それでもなお、人と人とが意思疎通を行う場合の、「言語」の役割は極めて大きいと言える。


現にmixiという媒体を用いて自分の「考え」なるものを示そうとしたとしても、それは私から発せられた「言語」によって伝えられようとするのであり、また相手の「考え」を理解しようと試みたとしても、それは相手が発した「言語」から私は相手の「考え」を読みとろうとする。


「考え」と一言で言ったとしても、そもそも「考え」と呼ばれる概念は必ずしも他の概念から明確に区別できるものでもなく、「考え」というものをわれわれは定義を持ってしても明確な概念を示しえない。


言い換えれば、われわれが明確に示しえるのはわれわれの「考え」ではなく、われわれの「言語」のみである。そしてその明確に示しえた「言語」はわれわれの「考え」ではなく、われわれが示した「言語」ということ以外にない。


言語と自己・他者・意思疎通


さて、私はここで私の「言語についての考え」を示したわけだが 笑、少なからず、われわれは相手と向き合うにあたり、その裏側で「言語」とも向き合ってみるという選択肢があると私は思っている。


それは相手が何を考えているのだろうという事とは別に相手との会話あるいは会話以外でもよいがさまざまな言語を媒体とした意思疎通を行うにあたって、相手が用いている「言語」、また自分が用いている「言語」とは一体どういったものであるのか、ということを人生を通じて学びかつ考えてみることによってもまた見えてくるものが違ってくるのではないかと思う。

 

それはあくまでもそういった選択肢があるに過ぎないとしか私には言いようがない。


言葉と対象の実在性および対象の不在性


われわれは何気なく言葉を使っているが、言葉と言うのは確かに何かを示すために存在しているという要素はあると思う。


そしてこれも付け加えないといけないだろうが、言葉は何かを示すために存在しているようではあるが、言葉の種類によって、あるいは言葉とは別の背景から現れる原因によって、言葉には対象を示しえていないという性質もあるのではないかという疑問が私にはある。


それは単にこの単語はこうで、あの単語はこういった感じといった感じだけにとどまらず、その単語が使用のされ方、つまり同じ単語でもその時々によって言葉と対象の関係性は異なっていると私は思う。


われわれは気軽に「言語」を用いることができる。われわれが物を食べる時などは食べ物がなければ物を食べることはできないが、言葉は違う。われわれが日常的に生存に適した環境の下では、あるいは言葉を発する上で健康状態であるならば、そこに何もなくとも「言語」を用いることができる。


人類は言語と向き合ってきたのか


実際のところ「言語」との向き合い方など様々であろうが、人類は必ずしも、原始的な時代から「言語」を凝視していたかというと極めて疑問を感じる。必ずしもそういったことが他の様々な人間の活動に増して優れた活動だ、などとは私は正直思わない。

 

しかしながら、人類は「言語」と向き合わないが故の困惑を絶えず持ち続けてきたという事くらいは言えそうな気がする。


確かにわれわれはわれわれの持ちうる困惑から自由になれないとは正直に思う。それは特に「言語」と向き合ったからといって解消されるものではないとも思う。


私が単にこんなことを書いているのは恐らく趣向に基づくような気がする。つまり、私がこんなことを書かない訳にはいかない理由は、不快感を発露としているように思う。

 

ここでは、私がどういったことについて不快感を覚えているのかは書かないが、少なからず、私は漠然とではあるが、何事かに強い不快感を持っており、その原因が、われわれが「言語」と向き合っていないと言いたくなるような状態と私が勝手に解釈している現象をその起源としているようにも思う。


あとがき


さて、ここまでダラダラと「言語」について少し触れたが、私は果たして「言語」そのものについて言及しているのだろうか?あるいは「言語」とは異なる何かについて言及したいのだろうか?その事についての判断はこの日記を読まれる少数の読者の判断に委ねることにしよう。