日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【憲法001】憲法と憲法を基礎づけるその基礎

my日本からの転載
2011年01月02日
【覚書】憲法に関して
mixiからの転載
2011年01月01日

法の根拠は非常に脆弱な論拠の上に立てるより仕方がないのだ。しかしながら、私はそう宣言するニヒリストであるが故にそのような活動を否定しない。

目次

 

はじめに


正月早々にこんなものは書くべきではないと思いつつ、また大晦日に書いた日記の続きも書きたいところなのにまた新たな主題を置くのはどうかとも思う。


ただ、私が「真理」ということを主題においている背景には実際は「憲法」問題も絡んでくるので、まったく関係ない主題でもない。


覚書ということで、文章の構築は少し緩める。


憲法とConstitution


思う事の一つに、Constitutionの訳語に憲法という日本語を当ててしまったのは大いなる失敗であったという点がある。私が廃憲論の側に立つ大きな理由の一つにさえなる。これは誰も強調しないので、敢えてする。


しばしば保守派が国体という言葉を使用するが、Constitutionには実際のところ憲法という概念に加え国体という概念とも重なる部分が大いにあると私は見ている。近代において構造主義という思想が生まれたが、これはある意味で必然的なものだと思う。


論理において一つ一つの命題はそれぞれの関連性によって全体像が見えてくる。法においても個別の法があって、それが互いに関連することによって社会という全体的なものに関わるのである。


憲法という用語の中にはこの全体性を醸し出すニュアンスが全くない。ある意味でこの全体性を見せないが故に法(ここでは憲法の条文)の理想性に強く縛られると見なしてもいいと思う。


我が国において60年以上も憲法が改正されなかった理由の一つとも見ていいのではないか?マスコミは意図的にこの全体性は示唆する国体という言葉を巧みにタブーにしたのは確かに優れて戦略的と見ていいだろう。


はっきり言うがわれわれは国家の全体的なあり様を絶対に議論しなければならない。それが本来のConstitutionに対する議論なのだと思う。


全体性について


全体性というのは会社を個別的に論じることではなく、社会全体の中において見るということであり、家族を個別的に論じることではなく、社会全体の中において見るということであり、学校についても然り、政府についても然り、天皇家についても然り、宗教についても、欲望についても、信念についてもまた然り、そういった事を、われわれのこの偏見を持った目で眺めた上で議論する必要があるといいたい。


社会というのは単に日本国内に対してのことに限らない。


日本を取り囲む環境もまた社会である。


論理において個別的な命題を信仰することに一体なんの意味があるだろうか?あくまでもほかの諸々の命題と関わっているが故にその命題が棄却されうるものかどうかも議論できるというものだろう。こういったアプローチがあまりにもされていないので仕方がないので敢えてする。


憲法>の根拠となる論理的前提について


われわれが構築しようとする法には、実際には絶対的な根拠などありえない。それは科学的な法則を考察することとはまったく別物でもあり、法の根拠は非常に脆弱な論拠の上に立てるより仕方がないのだ。しかしながら、私はそう宣言するニヒリストであるが故にそのような活動を否定しない。