【政治思想009】現代日本の保守派とプラグマティズム
my日本からの転載
2013年03月21日
プラグマティズムと現代日本の保守派
もしプラグマティズムに言及するのであれば、しっかりとC・S・パースあたりからしっかりと言及してもらいたいと思うのだが、そこに行き着くまでにはまだ時間を要するように思われる。
目次
- 保守言論におけるプラグマティズム
- 雑誌『表現者』系保守と初期プラグマティズム
- C・S・パースから生まれた独創的な思想プラグマティズム
- 心理学のW・ジェイムズと教育学のJ・デューイへ
- 初期に進んだプラグマティズムの学説的差異化について
- 記号的分析を発展させたパースとその重要性を強調した西部邁氏
- 『表現者』系論客の可謬主義と独断主義の混在
- プラグマティズムと日本における経済理論の今後
- 以下同日記へのコメント
保守言論におけるプラグマティズム
手短に
保守言論においてプラグマティズムという言葉を聴いたことがあるだろうか。様々な保守論壇にあってこのプラグマティズムという概念を私たちは耳にすることができる。例えば西部邁氏であり、藤井聡氏であり、中野剛志氏などがプラグマティズムという概念を積極的に使っている。
雑誌『表現者』系保守と初期プラグマティズム
しかしこの概念の実際上の使用といえばやや曖昧なところがある。この一つの理由は一つに彼らのプラグマティズムという概念の基礎となっているのが、基本的に西部氏によるプラグマティズム解釈に依拠しているからであり、彼らの使用しているプラグマティズムという概念の意味合いは、実質的にこの意味合いを超えては使用されていない。
プラグマティズムという概念はアメリカの哲学者C・S・パースなどを中心とした形而上学クラブというグループの間で生まれた概念で、実質的に私たちがプラグマティズムという概念を捉える事ができる出発点はパースからである。このグループに時折顔を見せていたのがプラグマティズムの論者の一人であるW・ジェイムズである。
C・S・パースから生まれた独創的な思想プラグマティズム
C・S・パースという哲学者は極めて独創的な人物で、彼の哲学はその時代のどの人物とも一線を画し、彼はほぼたった一人で彼のいうプラグマティズムという哲学を築き上げたといってもよいだろう。
心理学のW・ジェイムズと教育学のJ・デューイへ
これに触発されたのがW・ジェイムズであるが、基本的にジェイムズの哲学とパースの哲学はその根本から異なっており、プラグマティズムという思想の一群が曖昧かつ多義的であるのは、プラグマティズムが生まれたこのような経緯に拠る所が大きいだろう。これに続くデューイなどもまた、これらとは異なった思想であると見ることもできるだろう。
初期に進んだプラグマティズムの学説的差異化について
こういった現象は何もプラグマティズムにだけに限ったものではないというのは言えるに違いない。ドイツ観念論などもI・カントと後のフィヒテやシェリングの思想が全く異なるように、思想とは概ねそのようなものでもある。
私たちがかつて教えられてきたプラグマティズムとは概ねジェイムズやデューイの思想に基づき、そもそもの根源となるパースの思想ではなかったといってよいだろう。
その一つの原因としてパースのプラグマティズムが難解であるということ、そしてそのためと他にも原因があったようだが、生前ほぼ黙殺され理解されなかったこと、そしてそうであるがためにパースのいうプラグマティズムよりも、それ以降のプラグマティズムの概念が、一般的にいうところのプラグマティズムと解釈されたという所があるだろう。
記号的分析を発展させたパースとその重要性を強調した西部邁氏
パースの思想の中核には記号論という考え方があるが、これは言語学者のソシュールに見られる記号学と類似性が見られる。西部氏はこの記号論の重要性を強調している部分もあり、時にその方法論に沿っている部分もあるのだが、西部氏の他の論理によって蔭を潜めている時がある。
これを妥協と捉えるのは少々失礼であるとは思うが、残念ながらこの点は指摘せざるをえない。彼や彼らの経済論はあくまでも仮説であり、それが彼らの想像通りに働くなどということはありえないだろう。
『表現者』系論客の可謬主義と独断主義の混在
西部氏は経済論について具体的な言及を避け、概ね彼の後継者の藤井聡氏と中野剛志氏に委ねている部分があると思う。彼らも時に可謬論を口にするが、彼ら自身の経済論についての可謬性については口を噤んでいる。
これでは戦後から一貫して続いている私たちの対話法とさほど変わらないのではないかという不満を内心抱かざるをえない。経済学ほど怪しい学問は私はないと思っているし、彼らもその点は強調している。しかしながら、自らの経済学がなんらかの陥穽に落ちる危険性があるのではないかという懐疑が極めて薄い。
プラグマティズムと日本における経済理論の今後
もしプラグマティズムに言及するのであれば、しっかりとC・S・パースあたりからしっかりと言及してもらいたいと思うのだが、そこに行き着くまでにはまだ時間を要するように思われる。
以下同日記へのコメント
1: H
外来思想をベースにした自論展開は翻訳時の主観が入りやすい気がする。
これを排除するのは無理だから、逆に主観の存在を前提に話を進める必要がある。
最も、そんな訳分からん上にどこの馬の骨とも知れない代物でないと保守思想を説けないということ自体が一番の問題だと私は思う。
2: 初瀬蒼嗣
>>1 Hさん
なるほど。
そもそも保守思想という概念そのものが外来思想だということもあります。私自身はそれほど外来由来のものに抵抗がなかったりします。PCに限らず、私たちの身の回りにある生活必需品の技術の根幹は外から持ち込まれてきたものですが、正直、外来思想なり外来の技術なりを批判するのであれば、身の回りの生活必需品についても批判して欲しいなどと思ったりもします。日本の国柄が大事だと言った所で、良かれ悪しかれ頭の先から足の裏まで外来、特に西欧、アメリカの文化にどっぷり浸かってしまっている自分としては恥ずかしすぎて言えたものではありません。「日本」を貫くのであれば、「保守」だのなんだの言うのももしかすると可笑しいのかもしれないというのは時々思います。
まあ、日常生活でもそうですが、たまにはどこの馬の骨とも知れない奴と付き合ってみるのも、私はそれほど悪いことではないとは思いますけれどね 笑。その辺は蓼食う虫も好き好きということでいいのではないかなと思います。