日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学018】ある保守派の立場から見たヴィトゲンシュタイン像

my日本からの転載
2012年06月18日
ヴィトゲンシュタイン――保守の哲学的根拠
mixiからの転載
日時は転載記事別に記載

基礎づけられた信念の基礎となっているのは、何ものによっても基礎づけられていない信念である。

        ヴィトゲンシュタイン『確実性の問題』

 目次

 

 

文章をまとめようとしては書いていない。殴り書きに近いもので編集する必要性は感じる。

ヴィトゲンシュタイン/チャールズ・パース/カール・ポパー

個人的に保守の哲学的根拠を求める時、この日記の主題であるヴィトゲンシュタインの言語論の他に、チャールズ・パース記号論カール・ポパーの批判的合理主義などが極めて有効であろうと思う。

 

言語に徹底的に挑んでいくヴィトゲンシュタインは、ポパーの批判的合理主義とは異なり保守派のなかではあまり取り上げられないことに、私は密かに不満を抱いている。言語を丹念に批判する態度という点だけをとってみればヴィトゲンシュタインに比肩する人物を挙げることはほぼ不可能であろう。

 

如何なる論説も言語によってなされる以上、私たちは言語に対する問いを発しないわけにはいかないはずであるが、言語論なき論説が保守派においてすら蔓延している状態が続いているように見える。

 

この点において、私の主張は抽象論に不慣れな人は特に苛立ちをもって読まれるかもしれないが、そんなことは私にはどうでもいいことである。

 

部分的にしか書いていないので、物足りないかもしれないが、その点については私に責任があるという指摘は避けがたい。

 

保守派にあって言語論が等閑にされている状況を目の当たりにした時、私には凡そ耐え難いものですらあると告白せざるをえない。

 

 

ヴィトゲンシュタイン――保守の哲学的根拠①


2012年05月14日

 

西部邁が見た保守の哲学的な根拠

 

恐らく私がヴィトゲンシュタインという人物の名前に触れてからおおよそ十年という月日が流れようとしている。

 

その当時の私といえば、思想哲学に惹かれつつあり、戦後日本において漂っている大衆的な道徳、大衆的な趣味と決別したいという雰囲気に駆られていた。

 

そのことが良かったのかどうかなど解らないが、少なからず、当時の自分にはそこしか道がなかったように思える。

 

当時の私の世界観は世界は陳腐な価値体系に彩られているといった若造にありがちな気分に駆られており、どこかにそれと決別するための、というよりはそれを痛烈に指弾している言論に出会いたかったという部分があったように思う。

 

そういった気分に駆られていた過程で出会ったのが西部邁『思想の英雄たち』である。

 

その著作においてヴィトゲンシュタインまで至るにあたり、私はバーク、キルケゴールトックヴィルニーチェ、ブルクハルト、ル・ボン、チェスタトン、シュペングラー、ホイジンガオルテガヤスパース、エリオットと読み進めていく。

 

当時は哲学者などほとんど学校の倫理の時間に聞いたことがある人物の名前しか知らない程度であり、正直言うと、その当時はキルケゴールニーチェの名前しか知らなかったし、ヴィトゲンシュタインの後に挙げられるハイエク、オークショットを含めると、後はハイエクの名前しか聞いたことがなかった。

 

この著作には顔写真なども載っていたが、一度読んだ後では誰がどの思想であったのか解らない始末であったというのも告白しておこう。

 

全体的には著者の思想と言いたくなるように、著者がスポットライトを当てている部分、また著者の解釈が先行している訳であり、決して彼らが本当に何をいいたいのか分かっていたわけではなかったにせよ、正直ひどく興奮していたように思う。

 

西部の大衆批判の中で一際目を引く言語哲学から見た保守論

 

特に全体的に大衆批判の体を成しているだけあって、この中では一際異彩を放つヴィトゲンシュタインなる人物も概ねそのような主張をしているのであろう感じで読み進めていったに違いない。

 

少なくとも繰り返しこの著作におけるヴィトゲンシュタインを読むことによって、次第にこの人物に惹かれていったということは事実であろう。

 

ヴィトゲンシュタイン関連の著作も当時随分読んでみたが、彼の後期の著作を読んだ時には、はじめ何を言っているのか解らないように感じる部分のなかに、とてつもない情熱と執着、狂気、真剣さを感じたものであった。

 

書架に並ぶ多くの哲学書に興奮していた若き日

 

ヴィトゲンシュタインの著作は書店に行けば当たり前だが、哲学関連の著作に囲まれている訳だが、その中でも一段と異彩を放つ言論群であったというのが当時の印象であっただろう。

 

当時半ば書店という存在に苛立っていた自分としては、わずかに広がるその空間に酔わずにはいられなかったというのはあったと思う。それだけ異彩を放っている感じがしたのだ。

 

恐らく私は先に『思想の英雄たち』を読まなければ、論理哲学論考を読んで、また日本人の解説本を読んで終わりであっただろう。場合によってはヴィトゲンシュタインを発見できなかったに違いない。

 

恐らくそれほどのめり込まなかっただろうと思う。解説者の解説に酔っていたに違いない。しかし、ヴィトゲンシュタインの文章にはそれ以上の酔の効果、狂気、真剣さが秘められているように感じる。

 

また、ヴィトゲンシュタインを読んだ時に、私は童心に帰るかのような感覚も覚えたということも告白しておく。

 

それまで読んだ如何なる著作よりも、純粋な眼差しを世界に向けているように感じたのだ。

 

着飾った知性ではない、何もかもを見透かしてやろうという恐ろしいまでのその眼差しがとても懐しく感じたのだ。

 

社会科学の視点からヴィトゲンシュタインはどのように位置づけられるのか

 

私はかつてある学生からヴィトゲンシュタインの哲学が護憲を正当化するための講義に使われていると聞いたことがある。それもかなり由緒正しき大学においてである。

 

残念ながら日本の大学にはそういった所があるだろうなと感じたものだ。

 

私にはヴィトゲンシュタイン保守主義者であるのかどうか断定することにそれほどのこだわりもないし、概ねなんの意味もないと思っているが、保守的な立場の人間がヴィトゲンシュタインと向きあう事には極めて大きな意味があると思っている。

 

恐ろしいまでの言語との格闘、場合によっては彼は概ね現象全般と格闘していたといっても良いと思う。そこには体系的なこだわりが薄い。

 

彼は実際に彼が向きあったものを凝視せずにはおれなかったのではないかと思う。

 

そこには体系化を行なう著作の多くに見られるような安楽はない。彼の著作には休まるべき瞬間が見当たらない。

 

場合によっては危険な著作群とも言えるのかもしれないが、この著作群に精神を毒されてみた後に広がる世界は恐らくそれ以前に見ていた世界と幾分異なるだろう。

 

『思想の英雄たち』からあれこれ引用しようと思ったが、まあいいや 笑。何はともあれ、最初に彼のヴィトゲンシュタイン解釈に出会えたのは正直よかったと思っている。

 

 

ヴィトゲンシュタイン――保守の哲学的根拠②


2012年05月16日

 

オーストリアヴィトゲンシュタインとK・クラウス

 

ヴィトゲンシュタインについてもう少し触れることにする。まず、伝記などにおいて人物について触れる場合、その人物の生い立ちについて触れられると同時に、大抵の場合はその時代、つまりその人物を取り囲んでいたであろう環境についても触れられるものである。

 

恐らくヴィトゲンシュタインの生きた時代のその地域の空気を感じるのにはウィトゲンシュタインのウィーン』が最もよく表現されているように思う。あくまでも表現としてであって、実際、私たちがそれを感じるのは難しいのだろう。

 

近代が宗教と伝統を破壊してきたという事実を弁護し切れるものではない。――中略――第一次大戦を目前にしたウィーンをさして、文芸評論家K・クラウスが『炬火』において「世界破壊の実験場」と読んだのは、この種の悲観にもとづいてのことであろう。
 『思想の英雄たち』――保守の哲学的根拠

 

恐らくK・クラウス『炬火』(記憶が確かなら雑誌だったと思うが)に触れているのは『ウィトゲンシュタインのウィーン』を踏まえてのことであろう。

 

ヴィトゲンシュタインは実際に第一次世界大戦において従軍しているし、第二次世界大戦の時代も生き抜いてきた。この当たりの時代の変化、思想の変化の変遷というのは特にヨーロッパにおいては急激なものであったろう。

 

そのような時代に生きたヴィトゲンシュタインをどのように位置づけるのかという点について、総合的に自分の考えを持って提示している人物はまず少ないと言わざるを得ない。

 

ヴィトゲンシュタインこそは、西洋人にとっての世界(近世の遺制と近代の創造物とのアマルガム(注))が激しく痙攣する状況のなかに身をおいて、さらにはその症状を促進するのに一役買おうとすら努め、その挙句に、世界を支えてくれるはずの人間精神の岩盤が何であるのかを、より正確にはその岩盤を時間の流れのなかで動かしている人間精神の岩漿(注)めいた流れが何であるかを、鋭く感じとった第一人者だからである。

*1

 

分裂気質と見なされるヴィトゲンシュタイン

 

この点は言い得て妙であると思う。ヴィトゲンシュタインについては、記憶は曖昧だがポール・ジョンソン『インテレクチュアルズ――知の巨人の実像に迫る』などに見られるように、しばしばその分裂気質を指摘されている。

 

分裂気質については私は読んだことは無いが浅田彰『逃走論――スキゾ・キッズの冒険』などで取り上げられているように、特に彼以降なのだと思うが、しばしば日本の哲学方面の言論で実際に目にすることが多い。

 

分裂気質を指摘されている哲学者には他にはニーチェなどもいるが、実際に感覚として解る部分がある。まず、非常に観念に敏感である点は共通している。特にヴィトゲンシュタインにおいては極めて深く言語論にのめり込んでいく。

 

元々が航空工学などを学んでいるだけに、鋭くその時代の、あるいは人類の使っている言語の使用に対して、ある意味では全く一人でメスを入れていくのである。

 

ジャック・ブーヴレスのポスト・モダンとヴィトゲンシュタインの比較

 

実際のところどうなのか解らないが、比較的ポスト・モダンと同じような感覚でヴィトゲンシュタインを語られる場合も多いのだと想像するが、例えば、この点において断固として否定したのはポスト・モダン哲学とくくられる哲学を多く輩出しているフランス人である。

 

ジャック・ブーヴレス『哲学の自食症候群』のなかでポスト・モダン哲学からヴィトゲンシュタインを切り離し、ヴィトゲンシュタインの哲学を参照しつつ、ポスト・モダンを痛烈に批判している。

 

トゥールミン、ジャニクのヴィトゲンシュタインの位置づけ

 

トゥールミンジャニクがその著作において指摘する「知的世界の不潔きわまる馬小屋を誰かが洗い流さねばならなかったのであり、そして、この知的衛生の課題を遂行する運命にあったのが、たまたま彼だったのである。」という表現は決して誇張ではないように感じる。


自問自答に明け暮れる異才の日常

後期のヴィトゲンシュタインは非常に平易な文体で、まるで自問自答するかのように、さらに言えば、自問自答し続けるかのように文章を書き連ねている。実際に、彼の文章には読者は必ずしも約束されたものではなかったが、恐らく、読まれるであろうことはある程度期待していたであろうと思う。

 

加えて言えば、例えばショーペンハウアーに見られるような、またはハイデガーに見られるような体系的記述とは程遠い。しかしながら、逆に言えばそうであるが故に、そこに書かれている文体はどこを読んでも、ある程度は、誰もが疑問に思っているような、あるいは自問自答しているような内容でもあるのだと思う。

 

ヴィトゲンシュタインの理論を元に保守の再定義を試みたC・コーヴェル

 

ヴィトゲンシュタイン保守主義者かどうかというのは実際は私はどうでもいい定義付けだと思っている。それは保守主義の定義や保守の定義、主義の定義、解釈などによっても、様々な考え方ができるからであって、あまり固定的にする必要はないと思う。

 

私は読んだことはないが、これはC・コーヴェル保守主義の再定義』における第一章のヴィトゲンシュタインと現代の保守主義というこの章の影響が大きいものとおもわれる。

 

実際読んでいないので解らないにせよ、保守思想、反進歩主義を援用する上でヴィトゲンシュタインの言語論は重要な役割を果たしうると思っている。

 

個人的には進歩、保守という言葉の羅列もある意味で酷いものだとは思っているのだが、少なからず、付き合わざるを得ない概念であるとは思っている。

 

哲学者ヴィトゲンシュタインを解釈する上で

 

真理表がどうだとか、家族的類似がどうだとか、使用だとか、一般的に言われるところのヴィトゲンシュタイン解釈をこんなところでやっても仕方ないと思うので、敢えて取り上げないが、少なくともヴィトゲンシュタインの解釈にはこのような解釈もあるという点だけ指摘しておきたい。

 

私はニーチェの哲学もそうであるが、そもそも哲学というものに対してあらゆる人間が接すべきものであるとは思わない。ヴィトゲンシュタインを解釈するのはごく一部の人間でいいのである。

 

そしてそれをなんらかの形でより平易に、より解りやすく記述するなり、描写するなり、可視化するなりすればよいのであって、先にも述べたように毒に触れ得る人間だけがその毒に触れるべきなのだと思う。

 

哲学的解釈の場、様々な思考を巡らせて世界を解釈し、記述し、あるいは可視化するという作業は概ねその場を奪われつつあるのではないかと感じる。

 

そしてそれが場合によっては現代の危機の直接的原因なのではないかと感じる。

 

現代社会において委縮し続ける思考活動

 

家庭において、あるいは社会において、国家において何を為すべきかという思考活動が萎縮しているように感じる。

 

非常に手頃な政策論だけが、巷に溢れかえる不毛な議論が延々と繰り返されているとしたら、それは実際に我々に危機を呼び込んでいる直接原因と言って差し支えない代物に過ぎないと感じざるをえない。

 

なんとなく中途半端な感じだが、まあいい。適当に修正しよう。

 

 

ヴィトゲンシュタイン――保守の哲学的根拠③


2012年05月16日

 

疑いのゲームは確実性を前提としている

 

ヴィトゲンシュタインの自問自答は自らが出した答え、自らが出しうるだろう答えに対して、更なる問いを発し続ける事が多い。

 

その中で「疑うこと」についての概ねの回答としてこのような言葉を投げかける。

 

もしすべてを疑おうとしたら、何事かを疑うということにすらならないであろう。疑いのゲームは確実性を前提としているのだ。

 

ヴィトゲンシュタインは「知っている」、「意味」、「である」といった言葉の用法を注意深く見つめながら、鋭くその解釈的な意味を洞察している。

 

また彼の論法にはほぼ常に他者が介在している。言語とは他者とのやり取りにおいて概ね意味を成すのである。そういった中で、他者との関わりの中で常に確実性を模索しているのである。

 

経験論・認識論的議論から言語論的議論の中へ

 

例えば、ジョージ・バークリーであれば、目の前に火が燃え盛っている状態を前にして、そこには決して燃え盛っている火はないというかもしれない。彼にとって存在とは知覚されたものであるのだから。

 

私はバークリーの経験主義的な命題は、彼の意味するところにおいて真であると思っているし、ある意味で圧倒的に正しく、多くの混乱を排除するに役立ちうるとすら思う。

 

しかし日常的に、例えば職人見習いが、親方から「石板を持って来い」と言われて、「石板はそこには存在しません。石板は親方の知覚されているそれです」とは答えないだろう。

 

まずこのようなことを言ったら馬鹿と見做されるか、殴られるか、首になるのがオチである。さらに言えば普通は「石板!」と言っただけで、それが石板を持ってくることを意味する場合すらある。

 

私たちは何らかの形で、何らかの意味で確実性を求めて行動している。

 

科学・倫理・法律に関わる「基礎づけられた信念」について

 

更にこのような事を言っている。

 

(連続模様を無限に描き続けることは可能かという問いが)“私には根拠があるか”ということであるなら、その答えは、根拠などすぐに私から無くなってしまうだろう、ということだ。

 

そしてそのとき、私は根拠なしに行動するであろう。

 

自分の恐れている誰かに(ある)数列(の数え上げ)を続けよと命令されるなら、私は迅速に、完全な確信をもって、行動するであろう。

 

そして根拠の欠如していることなど私には気にならない。

 

例えばほんの一例であるが、私たちはとりあえず「人を殺してはいけない」はずであるし、概ねみんなそう思っている。

 

基本的にはみんなそれに従っている。私たちが人を殺してはいけない根拠を考える場合、私たちは概ね次のようなものにぶつかるだろう。

 

基礎づけられた信念の基礎となっているのは、何ものによっても基礎づけられていない信念である。

 

例えば、現在の世界において、戦争が起こったならば、私たちの常識である信念としての「人を殺してはいけない。」という考えは揺らがざるを得ない。

 

そう信じ続けることもできるし、場合によっては人を殺すことになるかもしれない。

 

私たちの信念は時に確かに強固であるが、そこには絶対的な根拠が、極めて確かな数学的前提のような根拠がない場合が多い。

 

私たちは、道徳や、倫理、法律を守る時、これらは概ねヴィトゲンシュタインが数列を数える時と同じような状況であるとすら言えるのである。

 

そして道徳や、倫理、法律を犯す場合も概ねそのような状況と見做していいだろう。

 

私たちが道徳、倫理、法律、憲法などと言った場合の秩序、約束事というものは概ねこのようなものであると思う。私たちは何故それに従うのか、実は確かな根拠はない。

 

法律論・憲法論を語る上でヴィトゲンシュタインはどのような意味をもつのか

 

私たちはこのような前提を踏まえないで、実際は道徳は守らなければならないとか、法律は守らなければならないとか、慣習に従わなければならないとか、憲法違反であるとか主張しているのではないか。

 

私はそのような主張がなされる度毎に、その根拠はなんであろうかと問いただしたくなるが、彼らは巧みにその根拠を提示するであろう。その主張の正しさを証明する根拠になっていないであろう根拠をである。

 

実際にその時、道徳は守られなければならないのかもしれないし、慣習に従わなければならないのかもしれないし、法律を守らなければならないのかもしれない。

 

恐らくその判断を行う場合、なんらかの根拠を持ちだして考えられるに違いない。そして概ねそのようにすべきなのだろう。

 

ただしあくまでもその根拠や確実性は乏しいものであるかもしれないということなのだ。

 

ヴィトゲンシュタインの主張である「語りえぬことについては沈黙しなければならない。」という主張はある意味でバークリーの犯したようなある意味での誤りを犯しているとは言えるかもしれない。

 

しかし、それと同時にバークリーが指摘したかった意味と同じように重要な意味を持っているのであろう。

 

とまあ、憲法改正論と絡めるべきことでもあると思い書いてみた。

 

 

ヴィトゲンシュタイン――保守の哲学的根拠④


2012年05月22日

 

分裂気質の考察

 

分裂気質について触れたので、分裂気質について考察しよう。分裂気質とはscizothymia、統合失調症のことをintergration dysfunction syndromeという。統合失調症は昔は分裂病scizophreniaと言っていた。

 

統合失調症における統合intergrationとはmade wholeの意味である。哲学的に精神の統合を意味する概念として統覚apperceptionというものがありwith + to perceive (entirely + take)、ライプニッツによって作られ、カントなどによって使用されている。

 

ここで取り上げたいのは精神における「統合」と「分裂」についてである。分裂気質の語源はdivided + style、分裂病の語源はto split + mindとなっている。

 

schizophrenia
a long-term mental disorder of a type involving breakdown in the relation between thought, emotion, and behavior, leading to faulty perception, inappropriate actions and feelings, withdrawal from reality and personal relationships into fantasy and delusion, and a sense of mental fragmentation.

 

私たちが、統合失調症を普通に狂気insanityと捉えると、それに対立する概念は正気sanityになる。言い換えると統合の失調あるいは考え、感情、行動などの関連性の崩壊、関係立てられていない状態が狂気であり、その反対が正気と考えることができる。

 

つまり物事を関連させ、総合的に物事を考える、感情を関連付ける、行動を関連付ける、環境を関連付けることの中に、私たちは正気というものを見出すのである。

 

実は関連性がなく、思考が、感情が、行動がバラバラである状態は単にあるだけであり、関連性があり、思考が、感情が、行動が、関連付けられることの方が労力を要するのである。

 

言い換えると正気とは労力を要されるものであり、正気であるためにはエネルギーが必要なのである。私たちはなんとなく狂気に活力やエネルギーを見出しがちだが、内面的には正気であることの方が活力があり、エネルギッシュなのであると言い得る。

 

自然状態とは何かということを考えると様々な解釈ができるが、本来狂気の方が個体においては自然的状態であり、私たちはこの自然状態から抜け出すこと、正気を手に入れることに労力を割かなければならないのである。

 

ヴィトゲンシュタインの中に見出される分裂気質または狂気

 

ヴィトゲンシュタインの知的活動は、自然的状態から言語的思考を延々と繰り返すことによって正気を手に入れようとする行動なのである。

 

社会においてこの正気を手に入れようとする活動が減退すると、社会の中の人々は、否が応もなく分裂気質化していくように思う。

 

人間は否が応もなく何らかの意味で分裂気質から自由にはなれず、私たちが正気と見なす精神状態はある意味では妥協的解釈に基づく正気なのである。

 

循環気質のチェスタトンが見た狂気論

 

チェスタトン曰く「狂気とは理性を失ったものではなく、理性以外のあらゆるものを失ったものを言うのだ」ということであるが、正気であるためには、理性、感情、行動、環境の関連性の妥当性を実生活、現存在において模索する活動の中に見い出されるのであって、我々は概ね正気であるよりも狂気の側に近い。

 

この精神における理性、感情、行動、環境の関連性を模索することは、現代的な学問的なもののみから生まれるものではない

 

。逆に言えば、学問的な活動が高度化する事によって、私たちは正気を実現する活動の時間を奪われるとすら言える。

 

ヴィトゲンシュタイン/パース/ポパーの理性論について

 

理性に対する、感情と行動、環境の関連性を模索することは凡そ学問から得られるものではないだろうが、理性における、概念の関連性を模索することは、現代においてはヴィトゲンシュタインもそうであるが、チャールズ・パースやカール・ポパーなども緻密な考察を行なっている。

 

ある意味で、ヴィトゲンシュタインを、あるいはパースを、ポパーを学んでいればいいとは言えない。

 

それはより実践的な生においての正気の模索がなされていないからである。しかし、そんなものは個人でやれよといいえることであり、彼らが理性における正気を求めた活動から学び得ることは実に多大であるといえるであろう。

 

 

かなり中途半端だが、編集するための材料として書き残しているみたいな感じ。

 

以下同日記コメント

1: K1


ヴィトゲンシュタインはまだ全く読めてないのですが、論理実証主義とか日常言語学派の活動が、ヘーゲル主義やマルクス主義といった迷妄を粉砕するのに威力があったのではないかと注目はしており、いつか、その辺りの本をきちんと読みたいな・・・と思っています。

あとトゥールミン辺りの近代主義批判と実践哲学・実践知(phronesis)の復権の提案も。

この辺りを保守主義の基礎付けのために分かり易くまとめることが出来たらいいな・・・。

 

2: 初瀬蒼嗣 

>>1 K1さん

コメントありがとうございます。K1さんの書かれている日記からとてつもない真剣さを感じております。

詳しくはわかりませんが、論理実証主義ヴィトゲンシュタインが影響を与えたのは間違いないところのようですが、論理実証主義の中心的な活動の場であるウィーン学団に対してヴィトゲンシュタインが懐疑的な立場を取っていたようですので、この辺りの解釈は私には難しいです。これらの活動と比較しますと、ヘーゲル主義やマルクス主義に対して直接的な批判を加えたポパーの役割はやはり大きいものだと思います。

トゥールミン辺りの近代主義批判と実践哲学・実践知の復権の提案というのは面白そうですね。日本では焦点をあてられていないまともな思想家や哲学者というのは多くいるでしょうし、その辺りに焦点があてられることに期待したいところですが、今後もルソーやヘーゲルマルクスあたりが思想研究の中心であり続けるであろうというのはどうしても思ってしまいますね。疑うことよりも権威に寄り添う人間の方が多いであろうと考えますと、楽観視はできません。

そんな中でも体系的かつ視覚的に、そして解りやすく物事を論じようとされているK1さんの活動は素晴らしいものだと思います。今後とも陰ながら応援させていただきます^^。


3: K2

おはようございます。
初瀬蒼嗣さん…プロフィールが、かなり変わってしまっていますが
何が起きたのでしょうか(;゚ω゚)

それと日記へのコメントじゃなくて申し訳無いのですが。


>>1 K1

ヘルベルト・マルクーゼはウィトさんをはっきり批判してますよ。
多かれ少なかれ威力があったのでは無いかと。


4: 初瀬蒼嗣

>>3 K2さん

コメントありがとうございます。

そうですね。まあ、あんまり喧嘩腰で絡まれるのは好きじゃないので、単にその予防線ですね 笑。あまりに人との接し方についての考え方が違う人や、ネットの使い方についての考え方が違う人と話すのは、苛立ちの原因になります。それに付き合ってもいいのですが、無駄な論争で終わるのは明らかだろうと思います。時に自分の考えを一切書いていない人物と論争することほど馬鹿げたことはありません。単に批判することくらい簡単なことはありませんからね。中身が何もないにも関わらず、論争の勝ち負けにばかりこだわる人もいます。他人の自己正当化に付き合ってあげられるほど、私は心が広くないんですね 笑。

あと年寄りの説教もウンザリします。耳を貸すべき説教というのは実は大好きなんですけど 笑、内容のない説教に付き合うのは御免です。爺の欲求を満たすための対象になるのは御免である、というのがプロフィールを変えた一番の理由ですかね 笑。

 

5: K1

>>3 K2さん

マルクーゼまでは当分進めませんが、情報提供有り難うございます。

誰か西欧マルクシズムの思想的内容と評価を簡潔にまとめてくれたら一番いいんですけどね。

 

 

 

*1:アマルガムamalgam 融合したもの。入り混じったもの。
岩漿 マグマ