日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【論理・演算002】コンディション/条件

2013年03月05日
【覚書】条件論
【転載】条件分岐より

わたし達は条件のない、前提のない、論理の道筋のない「結論」を日常的に頻繁に目にするが、というよりも概ねすべての表現がそういった側面があるのだが、この場合、結果として断定的な印象が強く残るのみである。

目次

 

 

条件文とは何か

 

 論理学において《条件文》conditionという用語は慣例的に《pならばq》のように「ならば」という言葉を用いて表現されています。

 

 論理学に限らず日常的な表現において「もしpならば」、「pであればq」、「仮にpならq」等、私たちは様々な表現を使っています。

 

 基本的には文法構造上、思考過程上も一つの条件に対して一つの結論が導かれることが多いと思います。

 

前件pと後件q

 

 論理学においてはpを《前件》、qを《後件》と表現する場合もあります。

 

認知上の条件と現実の条件の違い

 

 これはあくまで文法構造上、思考過程の上で、条件と結論の関係が表現されているのであり、実際に現実の如何なる場合でもこの条件からその結論が導き出されるということを意味するわけではありません。

 

日常および非日常生活において重要な意味をもつ条件文と推論方法

 

条件分岐というのは単に言語的な一つの特質をもつという指摘をしたいわけではなく、日常的な様々な出来事において、私たちが思考する限り、この条件分岐が関わってくる。

 

これについて現実的にこの条件分岐における「条件」と「結論」を結びつけることを「推論」というのであれば、「推論」とは一つの思考過程、文法構造の特質であるが、一般的にというよりも全般的に物質的現象を描写ないしは指示しているものとは言えないだろう。

 

思考プロセスと文法構造

 

思考過程および文法構造上に現れる条件分岐という特質は人以外の他の生物について条件分岐的推論がなされているかといえば難しい問いかもしないがそれはさておき、人間の脳構造的な特質であるともいえるかもしれない。

 

私たちが物事を捉えるとき、物質的現象を描写し、指示するものであるというよりもずっと条件分岐的な特質が現れていると思う。

 

ヒトが認知上で行き着く結論と現実問題

 

この条件分岐を使用した推論という方法とは別に、人は事実とか、真実とか、本当のこととか、正しいことなどについて思い巡らせるものであるが、人はここで一つの推論、一つの結論に辿りつきうる。

 

繰り返すがここでいう結論とは正しいことという意味ではない。

 

人は如何に推論し、様々な未来を予想するのだが、結果として一つの現実しか現れてこない。

 

未来は如何様にも想い描けても、実際に訪れたものはただ一つであり、それはそうなる以外になかったとしか思えない世界である。この種の単純な推論から導き出される一つの世界観というのがいわゆる決定論というものであろう。

 

結果論が導き出す決定論の世界観

 

決定論それ自体には次のような意味は含まれていないが、しかし決定論的な世界観から次のような結論が導き出されることが多々あるように思える。すなわち私たちが如何に推論しようとも結果は一つしかないという考え方である。

 

決定論による自由意志の否定と自由意志論の反論

 

これは更に推論することそのものが無駄であるといった思考にもよく発展している。しかし、付け加えるが決定論という世界観にはそもそもそこまでの解釈は必ずしも付随するものではない。あくまでもそれに加えての解釈である。

 

これとは逆に決定論的な世界観を否定すると次のようなことが起こりがちである。つまり「AならばBである」という考え方が絶対化してしまうということである。

 

それが一般的にいわれるところの「正しいこと」が出来上がるのである。確率や統計なるものが何か正しいものであるかのように語られる場合も一つに決定論的な前提が否定されているか、無視されているか、まったく考慮されていない場合が多いように思える。

 

決定論と自由意志論の調停不能

 

これは必然性とか偶然性とか蓋然性とか可能性などという概念にも現れているとおり、概ね調停不能であると思う。

 

条件法は真理を導き出さない、しかし条件法によってヒトは開拓者となる

 

これだけは言いたいのだが、条件分岐という思考方法によっていわゆる真理は導き出されない。またいわゆる真理を語る凡そすべての言説は条件分岐という思考方法あるいは過程に基づいている。

 

何も宗教家や哲学者を非難したいわけではなく、条件分岐という思考方法が最も有効なのは恐らく一つの例だが狩猟や採集といった生を営む活動の戦略であり戦術である場合がほとんどではないかと思う。

 

条件分岐を用いて行われる活動は概ね失敗がつきものであるが、それでもそれなりの成果を収めることができる。

 

帰納法的思考の落とし穴からの脱却と条件法

 

その繰り返し作業が、太陽が東から昇って西へと下っていくといった、概ね昨日もそうだったし、今日もそうだし、明日も確実にそうであろうと思える事柄については言える。

 

言い換えると突然それまで幾ばくか確実であったものが、その繰り返しを終えてしまった場合には、そこで行われている戦略や戦術が使えなくなってしまう、ないしは無効になってしまうということはありえるだろう。

 

突然でなくとも徐々に環境が変化するということもあり、これについては如何に注意しようと、そこから発生する不利益を回避することは幸運と表現したくなるようなものであろう。

 

私たちの前に立ち現れる詐欺師たち

 

私たちがしばしば目にするあるいは耳にする論理は、場合によってはこのようなものから大きく逸脱している。

 

わたし達は宗教家のような如何にも怪しい風貌の預言者風の詐欺師を目にすることはないが、綺麗に整えられた衣服を身にまとい、綺麗な言葉遣いをしている知識豊富なこの種の逸脱を起こしている詐欺師を毎日のように目にしているし、耳にもしているはずである。これが私の勘違いではなければの話だが。

 

条件法を形成する過程とそれらを取り巻く演繹法および帰納法

 

条件分岐の基本構造は、AならばBといった二つの要素、条件と結論とここではしておこう、この要素のみによってひとまず構成されている。とはいえ、このような組み合わせを行うのには一つには演繹法的な、一つに帰納法的な様々な論理が裏にあるはずである。

 

その結論がこれらの論理と無矛盾で成立しえるとは、とてもではないが言えないだろう。条件分岐とは思考過程における一つの要素でしかなく、私たちのあらゆる論理を包括して結論を導き出すような代物では決してない。

 

断定文としての形式をもつ条件文の基本型の性質

 

しかしながら条件分岐を表現する文法の「もし~ならば~である。」といった文章それ自体には条件分岐という要素以外にも断定された文章という要素もある。

 

条件文が省略されている一般的な命題/前件は隠されている

 

また、「Aである。」という文章、「Aではない。」という文章は、条件分岐を含む論理的推論法によって導きだされた結論であると考えた場合、必ずしも「もし~ならば」という表現を必ずしも必要としない。

 

これは単純に「省略」と考えることもできるが、基本的に省略していない表現が実現可能か考えた場合、不可能であろうと断定して構わないと思う。

 

わたし達は条件のない、前提のない、論理の道筋のない「結論」を日常的に頻繁に目にするが、というよりも概ねすべての表現がそういった側面があるのだが、この場合、結果として断定的な印象が強く残るのみである。

 

世界大百科事典 第2版の解説
じょうけん【条件 condition】

論理学の用語。一般に〈……であれば(ならば)……である〉という表現に対応する事態で,〈……であれば(ならば)……〉の前の表現に当たるものが条件,仮定であり,その後の表現に相当するものがこの条件下に成立することがらであるが,〈ならば〉で結ばれる表現全体を条件(命題または文)ということもある。条件なるものの性格は必ずしも明確でないが,大きくは論理的なそれと非論理的なそれとに類別できよう。論理的条件の中心は現代論理の中核にある標準論理の条件で,いま任意の2命題をp,qとすると,p→qあるいはp⊃q等で表現され,その全体を条件(式),→(または⊃)を条件詞(または条件記号),pをqの前件,qをpの後件という。

じょうけん【条件】

法律用語。たとえば,(1)〈A大学に入学すれば〉時計を与える,(2)〈成績が下がれば〉奨学金の給付を打ち切る,というように,法律行為の効力の発生・消滅を,将来の成否不確定な事実にかからせる,という内容の意思表示を条件という。条件は,〈期限〉および贈与の際につけられる〈負担〉とともに,付款とよばれる。付款は,法律行為と一体をなし,その内容に一定の制限を加えるものである。法律行為から一応独立している利息約款・免責約款(約款)等の付属的約款は,付款ではない。