【思想・哲学023】因果と保守思想/経験論と政治思想
my日本からの転載
2012年07月07日
【覚書】因果について
私たちはより真剣に「因果への懐疑」とはなんであるのかを真剣に考えなければならないだろう。
目次
- 原因と結果の哲学
- 西欧哲学およ古今の文学における因果論
- 大乗仏教・中観派と現代科学哲学
- 西欧保守思想の懐疑主義と因果への懐疑
- 懐疑主義・伝統主義・有機体主義と目される西欧保守思想の解釈
- 革新派に見られる伝統の軽視
- 個人の理性が万能であると感じる錯覚
- 革新派の伝統・有機体への懐疑
- 保守派および革新派の因果への懐疑のあり方
- 終わりなき探求 UNENDED QUEST
- 懐疑的視点を放棄した伝統主義と懐疑的保守
原因と結果の哲学
思想を論じる時、ある事柄についてその原因が論じられたり、またある事柄についてその結果や結論が論じられる場合が非常に多い。言論とは概ね因果と深く関わりがあり、ある意味で原因と結果、結論の究明が言論の主要な目的であるようにすら思う。
その一方で、因果論それ自体が言及されるという場面はあまり見られない。そうであるが故に、因果論について深く言及された哲学は古典として長い期間、時代を選ばずに読まれてきたようにも思う。
西欧哲学およ古今の文学における因果論
例えばイギリス経験論や大陸合理論、ドイツ観念論、プラグマティズム、英米分析哲学、ポストモダンなども多かれ少なかれ因果論に言及しているものである。西欧哲学に限らず、古今問わず文学などにおいても言及されているだろうと思うし、因果に対する洞察がその作品に深みを与えていることが多いようにも思う。
大乗仏教・中観派と現代科学哲学
また、インドのナーガールジュナの『中論』などは主題それ自体が因果論であり、独特の因果論を展開している。ナーガールジュナには私たちが認識している因果、縁を徹底的に否定しているところがある。これには帰納法を徹底的に批判したポパーとの比較もできるのではないかと思う。
西欧保守思想の懐疑主義と因果への懐疑
アンソニー・クイントンの『不完全性の政治学』において、保守主義の根本的な態度について、懐疑主義、伝統主義、有機体主義の三つを挙げていたと思う。私は概ね彼の考えに合意するが、特に懐疑主義について言えば、ヒュームに見られるように「因果への懐疑」というのがその主題であるように思う。
懐疑主義・伝統主義・有機体主義と目される西欧保守思想の解釈
イギリスの保守政治は歴史的に見ても概ねその言及の程度の違いはあっても、懐疑主義、伝統主義、有機体主義を基盤としていたという。バークにかぎらず、イギリスの優れた保守政治家は常にこれを守ろうとしていたのであろうと思う。
革新派に見られる伝統の軽視
保守主義にとって「伝統」というものこそが最も重要な考察対象であることは否定出来ない。いいや保守派であれ誰であれそれは同じである。進歩主義者の安易な「伝統」の拒絶、「伝統」への敵意、嫌悪、冷笑に対して保守派は真剣に格闘しなければならないであろう。
個人の理性が万能であると感じる錯覚
近代より今日に至るまで私たちは自らの手によって、その見るからに軽薄な、いいや場合によってはその優れた論理によって、自らの首を絞めているようなところがあるように思う。
革新派の伝統・有機体への懐疑
私たちは様々なことを疑いうるが「伝統」への懐疑ほど危うい懐疑もまた存在しないように思う。また「伝統」を疑わない故に深みに嵌るということすらあり、保守主義の一つの課題として「伝統への懐疑」のあり方を真剣に考えなければならないと思う。
保守派および革新派の因果への懐疑のあり方
このためにも私たちはより真剣に「因果への懐疑」とはなんであるのかを真剣に考えなければならないだろう。この論点に立ち会えることこそが、場合によっては保守派の特権であり、進歩主義者の安易な空想めいた発想への軽信や技術礼賛とは異なり、崇高な知的活動であるように思う。
終わりなき探求 UNENDED QUEST
私にとってこの点に言及しているかどうかが保守かどうかの分水嶺であるように思われ、「因果への懐疑」というこの「際限なき探求」にあっての「決断」にこそ価値を見出したいと思っている。
懐疑的視点を放棄した伝統主義と懐疑的保守
私は懐疑論なき伝統主義者と概ね決別したいという思いが強い。その一番の理由は懐疑論なき伝統主義にある種の全体主義の匂いを感じるからである。正しいならまだいいが、そのような考えは単に一般的に言うところの全体主義にほかならないとしか思えないのである。