【思想・哲学015】相互に迷走する伝統的理性主義と反理性主義
my日本からの転載
2011年07月17日
一つの論点
少なからずニーチェが見抜いたように記号の問題に言及しなければならず、その方法としてプラグマティズム系の記号論を援用する方法があるが、この記号論を提示することは極めて困難だろう。
目次
反合理主義が伝統的な合理主義に陥るワナ
伝統的理性主義への批判
個人的に思うのは、この点において突出して伝統的な合理主義を回避しようと試みた哲学者はニーチェであったと思う。
そうはいっても絶対的に伝統的な合理主義からの脱却には成功しているとは思えない。
付け加えれば、伝統的な合理主義から絶対的に脱却する方法は恐らく見いだせないとも思う。
日本の保守派が陥っている自己懐疑的視点の欠如
この点を保守系のSNSで提示するのは正直難しい。
少なからずニーチェが見抜いたように記号の問題に言及しなければならず、その方法としてプラグマティズム系の記号論を援用する方法があるが、この記号論を提示することは極めて困難だろう。
そもそも記号批判をしなければならず、基本的に保守派にはそういった素養がほとんどない。
信念がより確からしいものであるために
少なくとも、私たちが論理上使用するのは「真実」ではなく「信念」なのだという点を理解する必要があると私は思う。
「信念」とは「正しい」故に使用するのではない。
「信念」は確固とした「絶対性」を有さない。
少なからず「論理」はそういった「信念」によって構成されているのであり(後期ヴィトゲンシュタインやパースが言及しているように)、「議論」とはその「信念」に対して「批判」や「推敲」、「吟味」を加え続けるという方法でしかない。
だからといって、そういった「議論」を是正しようという試みが伝統的な「合理主義」に結び付きやすいという点は考慮に入れるべきであると思う。
保守派の西部邁の構造主義者としての役割
保守派の論争において小さく言及されている点、中川八洋が西部邁を自らの分類方法の外側に置き、分類に躊躇する理由として彼が記号論系の思想につながっているということを見抜けない点にあると私は思う。
少なからず、K・ポパーという哲学者が論理批判において考察しようとした点を無視し続けるのは保守派にとって危ういと思う。