日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学025】環境についての科学と政治思想

my日本からの転載
2012年08月02日
【覚書】環境論

目次

 

 


保守思想と環境についての論をちらほらあちこちでみる。この点についての自分の考えを表明したいと思っている。環境についての考え方について保守派に限らず、いわゆるリベラル派ともよく論を交わすが故に、論じることを避けるわけにもいかないと思う。特に対話者というのはシー・シェパードの支持者であるが、概ね私は彼らと考えを一致させることはできない。

 


 

様々な学問と隣接関係にある環境科学

 

時に科学の分野に属しながら、化学や物理学、生物学とは一線を画し、それはまた工学とも一線を画し、また時に社会工学としても扱われながら社会学とも一線を画し、政治学とも一線を画す奇妙な学問、それが環境に関する問題であろう。

 

具体的問題に取り組む学問であり分析的・一般化を求める性質が弱いということ

 

私たちは環境問題という自然環境の事を念頭に置くだろうが、それは土木工学や建築工学、化学、物理学、生物学、社会学政治学などとも関わりがあるが、それ自体としてその学問の中心的な立場になりえない学問、その全体性故に、場合によっては専門化に向かう学問と相容れないもの、そしてそうであるが故に専門性に弱く、イデオロギー化してしまう学問とも言えるのではないか。

 

政治的イデオロギーと結びつきやすく政治利用されやすい性質

 

環境問題に関わる書物を手に取るとき、如何に科学的な裏付けがなく、そしてまたイデオロギーに染まっているものは中々ない。いうなれば科学と呼ばれるものの中にあって、もっとも実質的に科学に縁がないものとみなすこともできるかもしれない。

 

環境学および心理学の対象が総合化された具体的対象であるということ

 

このように科学の様相を取りながら決して科学とは言い難い学問をほかに探すとすれば、それは心理学などがそうではないかと思う。心理学と環境学イデオロギーにもっとも染まりやすい科学と呼ばれる分野に属する学問であろうと私は思っている。その原因の一つがその複雑さにあると言っていいかもしれない。

 

総合的考察が受け入れるアドホックな仮説と仮説体系を断定してしまう態度

 

分析的な考察とは別に総合的な考察が必要であるのだが、少なくともこれらの学問は分析的な考察、科学的な考察を前提として考察されなければならない。しかしながら、様々な科学的な考察を寄せ集めた結果としての総合的考察とは、その労力に見合わない展望しか示さない場合が多い。そしてその無駄にも思えるような総合的考察に、次第に無根拠の、断定的な、力強い活動が介入してくるのである。

 

心理分析から正常化と独断化を行き来する心理学

 

心理学に対しては、20世紀の前半には厳しい科学的な批判が加えられもしたが、それでも心理学はイデオロギーに満ちた心理学が構築されているという部分があることは否定できない。

 

現代の科学哲学の薄められた批判の洗礼を受ける環境科学

 

そして環境学というこの真新しい学問は、心理学の後塵を拝みつつ、その手厳しい批判も他の学問と分けあって批判される形を取ることになり、イデオロギーに満ちた環境学が、さほどの批判も受けずに発達した側面はあるかもしれない。

 

環境学など、社会が劇的に変化しない状況にあってはそれほど問題視されることもなかったといってもよいだろう。環境に対する破壊というのは、私たちの文明をより輝かしいものとしようとする過程において、その意図しない結果として生まれてきたことがほとんど全てであろう。場合によっては私たちの環境学によってすら環境は破壊されすらするのであると私は思う。

 

環境学は政治的イデオロギーから不可避ではありえない

 

私は環境学イデオロギーに満ちていると表現したが、これは政治的な思想の影響を直接に受けやすく、政治思想のいわゆる保守派と進歩派の別を問わずに環境論は語られている。

 

弄ばれる科学的データ

 

この結果として、環境に関わるデータはその政治思想の優劣を判別するための材料にすらされている。そしてそのデータは決してその政治思想の良し悪しを判別するための十分な根拠になっていないにも関わらず、その外的な印象ゆえにその科学的な根拠として祭り上げられもするのであると思う。

 

環境学は政治の場で語られるべきではないのか

 

わたしはこの事をもって環境論と政治思想は分離されるべきであるとは思っていない。事実政治思想は環境論への十分な配慮ないしに語られることが非常に多いわけであり、それゆえに問題である部分が必ずあると言い切れるように思うのである。

 

しかしながら、事実として環境論は、必ずしも政治思想の善し悪しを見定める材料としては不十分である場合がほとんどであると言い切る必要も私はあると思う。このような立場は理解され難いかもしれないし、苛立ちをもって迎えられるかもしれないが、そういった評価に対して、私はそれは正当な評価とは言い難いのではないかと突き放したい立場であると言わざるをえない。

 

私は環境論をその政治的な中心主題として扱っていることに対しては批判はしないが、その内容に対しては批判せざるをえない。またこれとは逆に環境論をその政治的な思想の外側に置く立場についても批判せずにはおれない。私の見解は非常に厄介なものに見えるかもしれないが、しかしながら、そう思うということを私は覆すこともできないのである