【思想・哲学019】社会・人生の目的とニヒリズム
my日本からの転載
2012年06月19日
社会的目的とニヒリズム
mixiからの転載
現代人は生きているうちに三度殺されなければならない。
一つに肉体における死
二つに黄泉における死
三つに繁殖における死
少なくともこの三体の遺体を前にして行われることが、現代における政治であり、経済であり、社会であり、文化である。
私はそれなりに「政治学」には敬意を払いたいと思いつつも、同時に「反政治学」とでも言いたくなるような感覚を耐えず持ち続けざるをえない。
目次
保守論と現代社会の観点
私は保守思想が政治論だけに集約されてしまっている状態に幾ばくかの嫌悪感を覚える。保守思想は何らかの意味で宗教観と関わらずにはおれないだろう。私たちは宗教的な感覚を覚えると同時に科学的な感覚を持ち得る。
宗教におけるはっきりとしない根拠に基づく概念とは別に、私たちの「生」の根拠が科学によって何かしらの展望を与えられている。「生」におけるその科学的な様々な理論を眺める後ろ側には常に宗教的な感覚があるのではないかと思う。如何に科学的な理論家であれ、宗教感覚からは自由になれないだろうし、自由になるべきだというための確たる根拠もない。
生および死と結びつく思想
「生」と「死」というものを再び眺めた時、もしかすると私たちが主張する「思想」の背後にある人間臭い心理を発見することができるかもしれない。
転載元の日記は比較的古いものであるし、あまりこういったテーマを論じたことがなかった分雑然としているが、ただ、こういった内容のパースペクティヴを私は提示しないわけにはいかない。私たちの「生」における目的とは何かについての一つの悲観的結論を前にしながらも、私たちはしっかりと論理を構築する必要があるのではないか。
以下転載
社会的目的とニヒリズム
2011年12月01日
個人の目的
もし貴方がある人物に「紙」と言われたとする。これだけではその言葉が意味するところは曖昧だが、その状況において、貴方にとってどう考えてもその人物が「紙をとってくれ」という指示を出しているものと感じ、その上で従うならば、この時の状況において貴方の目的は「紙をとってくる」ことである。
もし貴方の目の前で、貴方が愛おしいと思っている人が落ちこんでいるとする。貴方にとってはその原因がなんであるのか実際そうであるかどうかはともかく、推測でき、かつ前向きになってほしいと願っているとする。
もしかすると、貴方は何か話しかけて笑顔を取り戻したいと願望するかもしれないし、ただ黙って寄り添ってあげるかもしれない。どのような選択をするかはともかく、貴方にとってその人が元気を取り戻すことが目的と言えるだろう。
具体的な状況において目的とは、何故そういった目的を抱くのかある意味で明白である。そこには明白な動機がある。理由がある。貴方はそれを達成できるかもしれないし、できないかもしれないが、目的を達成することは常に喜びがあるなどとは思わないまでも、目的を達成することの多くには、それでも多くの喜びがあると思う。
相手に喜んでもらえたことに対する喜びであったり、手に入れたいものを手に入れた喜び、人から尊敬されることへの喜びなど、実際に行動をしているときには明確ではないかもしれないが、日常的な行動や慣習の多くには明らかに自らの喜びと結びつきがある。
喜びでなくても楽しさとか快感など、実際にあなた自身の「快感」が必ずどこかに生まれることが行動の多くを導いているように思う。
人生において、少なからず人は「快感」や「不快感」と結びついて生きていき、「快感」や「不快感」に対する計算をなんらかの形でしているものである。
人類の目的
人類に目的があるといえるだろうか、そもそも人類などという思考する存在はいない。人類は何かを達成しなければならないのか。
その目的達成のために、個人は何かをしなければならないのか。もしあると考えられるとしたならば、それは人類の目的というよりも、むしろ個人における目的の感覚を人類に投影しているだけなのではないかと思える。
貴方は両親に感謝しているだろうか。恐らく全ての人が感謝していると言わないかもしれないが、それでも大多数の人は感謝していると言うだろう。それでは祖父母についてはどうか。おそらく同じような結果が得られるに違いない。
ではさらに遡って江戸時代あたりの先祖を思い浮かべるとしよう。貴方は彼らに感謝するだろうか。恐らくそれでも多くの人が感謝すると答えるかもしれないが、間違いなく先に挙げた両親や祖父母に対する感謝の感覚とは異なってくるだろう。
それではさらに遡って1万年前の先祖に感謝しているといえるだろうか。この問いそれ自体が間違いなく、前の三つの例と比べても、日常生活において意識されることはほぼ皆無であろう。
科学的には更に遡れる。例えば5億年前の先祖、もはや先祖と呼んでよいのやら解らないが、そういったものに感謝するだろうか。ここまで来ると、自然に対する敬意の部分的なものにとどまるに違いない。
今度は時代を下ろう。私には子供がいないが、子供に愛情があるか、と問われたとする。前の両親の例と同じようにほぼ全ての人が愛情を抱くと答えるだろう。
では孫はどうか。親と祖父母との関係性と同じとは言えないのかもしれないが、同じように愛情を抱くと答えるだろう。曾孫や玄孫ではどうか。自分の子供と他人の子供を比較した場合は当然自分の子供に対して愛情を抱くだろうが、他人の玄孫と自分の玄孫のどちらに愛情を抱くかと言われれば、子供の例との感覚とは違う感覚が生まれるかもしれない。
さらに時代を下ろう。1万年後の子孫に愛情を抱くだろうか。恐らく抱かないと思う。抱きようがないと思う。そもそも彼らは存在として確かめられないし、先祖の例に反して対象の確実性がない。
またそういった存在者に対して私たちができることがあると言えるかも疑わしい。さて時代をまた遡って約40億年前を想像しよう。こんなことを普通は想像してもしょうがないが、学術的には面白い。もはやそういう次元だと思うが、この時代の生物など私たちにとってはほぼどうでもいいという感覚に等しいだろう。
未来はどうか。1億年後には人類は存在しないだろう。そういったもののために未来設計などしえない。しようという感覚が湧かない。したところで意味がない。
こういった視点に立てば人類の目標など究極的には存在しない。私たちが地球の環境のため、とか緑を守ろうという場合、こういった時代まで考慮には入れられていない。
とはいえ、子供が死ぬまでとか、玄孫が死ぬまでとかそういう次元では考えていないはずである。人々は恒常的に人類が続いていくような感覚を持って恐らく地球の環境を守ろうとか、緑を守ろうと言っていると私は思う。
しかし、すでにその前提であるべき恒常的人類の活動などない。この恒常的感覚に対して、私たちは自然に裏切られているという言い方は言い過ぎかもしれないが、少なくとも恒常的に人類は続かない。
そうなると地球の環境を守ろうとか、緑を守ろうといった目的は、「人類の終末」という感覚によって何かしら色あせてしまっているものであるように感じる。それは何も環境問題に限らず、すべての法や慣習についても言えるだろう。
我々には恒常的目的などありはしない。私たちの目的はどこまでいっても自分の幸福、あるいは時間軸を含めた隣人的なる他者に対する幸福が視野にあるだけで、それ以上のもの、つまり恒常的な他者とはなりえない。
私たちが築きあげる文明は恒常的なものではない。それは「人類の終末」とともに消滅するのである。少なくとも個人における目標はいくらでも思い描けるが、人類の目標はこの「終局」が確実であるが故に空虚である。そしてそうであるが故に、個人の生そのものもこの空虚とは無縁ではいられない。
ニヒリズムの一つの展望
端書
現代人は生きているうちに三度殺されなければならない。
一つに肉体における死
二つに黄泉における死
三つに繁殖における死
少なくともこの三体の遺体を前にして行われることが、現代における政治であり、経済であり、社会であり、文化である。
以下更新
このような感覚を前にして私には幾分様々な政治的主張が色あせてしまうという感覚があり、それを否定しきれない。しかしながら、このような観点を抜きにした全ての思想に対して偽善的なものを感じてしまうということも否定出来ないのである。
私はそれなりに「政治学」には敬意を払いたいと思いつつも、同時に「反政治学」とでも言いたくなるような感覚を耐えず持ち続けざるをえない。
あまり保守派からは論じられることはないだろうし、恐らく左からも論じられるようなテーマではないだろうと思うが、科学的に思想を論じるならば避ける事ができないテーマではないかと思っている。