日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学026】政治理論に使用されていた小保守主義・大保守主義という概念についての考察

my日本からの転載
2012年08月04日
保守主義と大保守主義

私は人類の営みに極めて悲観的な立場を持っている。人類は永遠には続かないという前提と、人間は自分勝手であり続けるという前提故に、恒常的より良き社会を信じていない。私は人類の滅亡を救済できないし、人類はやがて滅亡すると信じている。私が信じているところの信念は概ねこの人類の滅亡の、文化破壊の加速度を落とすことでしかないのである。

目次

 

 

議論されていた小保守主義・大保守主義について

 

あまりこのようなことを論じるのは趣味に反するが、小保守主義と大保守主義という概念区分に、なんの価値も見いだせないということを論じたいと思う。

 

立場を修飾する言葉「大」「小」、「真正」「似非」なる保守

 

そもそも保守主義に大保守とか小保守とかあるのだろうか?保守の考え方にも様々あるだろうし、多くの論を眺めた時、特に真正保守主義という言葉を目にするが、なんというか単に「真正」という名前の奪い合いみたいで、どうぞ好きにしてください程度にしか思わない。

 

保守の大小について論じることなど、一体なんの意味があるのか正直疑問以外のなにものでもない。

 

大きいことと小さいこと/チェスタトンの議論

 

私はかなりの体躯の持ち主であるが、正直大きいことにそれほど魅力も感じないし、大きいからといってなんだという感じがするのである。例えそれが大きな器だったとしても、それが紙で急ごしらえでつくった器であるならば、一瞬にして水が浸透し、器を破壊するであろうと思うし、小さい器というのも確かに困ったものだが、そんなハリボテの器と比べればずっと役に立つはずである。

 

論理の不完全性と伝統的な保守派の論理

 

私は、不完全性定理とか、反合理主義とか、批判的合理主義とか、批判的常識主義とか、可謬論とか、言語批判とか、理性について懐疑的視点を持つことに抵抗がない人間であるが故に、理性を振り回し、その理性的構造物にうっとりしているような振る舞いに対して苦笑いせずにはいられないのであるが、保守主義の大小を論じることについても同様に懐疑的にならざるをえない。

 

人類および文明において保守派がただ唯一できる方法

 

私は人類の営みに極めて悲観的な立場を持っている。人類は永遠には続かないという前提と、人間は自分勝手であり続けるという前提故に、恒常的より良き社会を信じていない。私は人類の滅亡を救済できないし、人類はやがて滅亡すると信じている。私が信じているところの信念は概ねこの人類の滅亡の、文化破壊の加速度を落とすことでしかないのである。このことをロジックで具体的に示すことなど概ね不可能であろう。

 

理想主義的保守主義者のヒーローごっこ

 

何かの理想を構築すれば全てが救われるであろうとか、自分はそのリーダーになれると思っている考え方に対して、私には子供じみたヒーローごっこにしか思えないのである。その理想を築こうと本気で考え、実行した場合、かつての理想主義者が陥ったような破壊と虐待、虐殺が待っているであろうと思う。私はこんなものに加担したくないばかりか、極度の理想主義者に対しては全面的に批判し、妨害し、抵抗しなければならないと考えるものである。

 

左派との対立を引き受けると同時に右派との対立も引き受けるという立場

 

私は左翼が示した理想主義に対して敵対せずにはいられないが、それが右翼においても示されるのであれば、それに対しても敵対しなければならないと考えている。現実はわれわれの思うようにはいかない。われわれの正義とは、われわれの神経系の中で築かれたシステム論的なものに過ぎず、そのシステム論たるや概ね適当なもの、ずさんなもの、自分勝手な解釈で作られたものであるのがオチであろうと感じる。

 

伝統的な保守派が葛藤の中で格闘する現実の世界

 

その中で、保守派は苛立ちと共に対話に励むしかなく、苦々しい相手の矛盾と自己の矛盾の中で格闘し、不完全ながらもその整合性、統合、無矛盾を模索するよりないに違いない。それは残念ながら不完全であり続けるだろう。我々は失敗し、挫折し、苦悩し、時に絶望せざるをえないだろうが、これにより安易な回答、完成された論理、絶対的正義を見出すことのほうがよっぽど危険であると思う。

 

理想主義的保守主義者への挑戦状

 

私がもし仮に小保守主義とみなされ、それをもって嘲笑されたとしても、基本的にはどうでもいい話である。問題なのはそのレッテルではなく、中身であるはずであろう。保守主義が小さいものに見えるならそれはそれで結構であるとすら思う。小さな存在を大きく誇示してみせ、闇雲に自己正当化に走るよりは、自らの小ささ、不完全さ、愚かさをはっきり認めることのほうが私には重要であるように思うからである。