日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学024】アナログ世界からみたデジタル世界

my日本からの転載
2012年08月02日
1と0の組み合わせとしての表象

私が1と0についての話を持ち出したのは、バランス論、平衡について考えるにあたっての話である。ファジーという曖昧さは、その見た目上のぼやけた、中間的な印象とは別に非常に高度に複雑な計算やテクノロジーの上に成り立っている。政治学的な中庸論や経済学的な公平な社会とは非常に込み入った議論が必要であろうという予測のための一つの前提として持ち出したい考えである。

目次

 

 

デジタル世界の「0」と「1」

 

単純に1と0と表現しているが、1とは「ある事」で、0とは「ない事」と考えよう。これは単純なモデルであり、「ある事」というのはエネルギーが移動することによってその位置において「ない事」になるのであって、消滅することはない。位置関係上「ない」状態になるが、厳密に言えば「ある」状態が移動することである。

 

0というのは一般的に「ない事」ではあるが、実際は「ある」が仮想的に「ない」と看做す場合もある。1はメモリに記憶された1などもそうだし、神経細胞もある意味で1であり、電気刺激、化学的刺激なども1と考えてよい。私たちの認識はこの1と0の流動的な流れの中の組み合わせによって認識される。

 

技術装置のディスプレイと人間の感覚器

 

例えばテレビもそうだしPCでもそうだが、そこに浮かび上がる映像なり画像は1と0の流動的な流れの中の組み合わせによって表出され、それが感覚器官を通って、認識されることによって脳内に浮かび上がる。認識として浮かび上がるのもその通りだが、テレビ画面、PCのディスプレイ上においての信号も確かに1と0の流動的な流れの中の組み合わせの上で映像なり画像がそこにはある。

 

「0」と「1」とで表現される「0」と「1」の中間概念

 

1と0の中間的な概念は、1と0の中間として存在するのではなく、1と0の組み合わせとして認識される。私たちが小数と捉えるもの、0と1のあいだの数字も、0と1の組み合わせによって表現される。それは0と1の中間というよりは幾つかの0と1の複雑な組み合わせとして認識される。

 

「0」と「1」によるブール演算「true」と「false」

 

私たちが1と0の中間的なものを想像するとき、それはより複雑な1と0の組み合わせであると認識できる。1と0を使ったものとして数学的な機能、数を数える機能のほかに、論理的な機能にも使われる。例えば、1を肯定、0を否定と考える方法である。肯定と否定の間にある曖昧な回答は、それでも肯定と否定の複雑な組み合わせによって認識されるものであるが、この複雑さを単に複雑か複雑ではないかの1と0として捉えるのは間違いであろう。われわれのその中間的な回答は入り組んだ1と0の関わりの中に存在する。

 

メモリに記憶されるストック(長期記憶)、メモリを流通するフロー(短期記憶)

 

コンピューターにおける1と0の概念はストック、とどまるものとして捉える場合が多い。例えば、2+2=4という計算において、この計算の結果はストックとしてとどまっている。メモリは記憶であり、とどまるものである。しかし1と0は常にとどまっているだけのものではなく、常に移ろいでいくものでもある。これがフローの概念である。人間の認識はストックとフローの組み合わせ、あるいはそのとどまる程度と移りゆく程度の複雑な組み合わせによって成り立っている。

 

空の状態が存在するが故に記憶の蓄積概念が生まれる

 

私たちは蓄積をイメージするとき、1が堆積することを想像するかもしれないが、一般的に空、0の状態があるが故に認識は成立する。炭の塊や石の塊は密であるが認識ではない。炭や石には意志がないし、真空状態の空間にも意志があるとは言えない。生物、考える存在、計算する存在であるためには、1と0が存在し、そこにストックとフローが存在しなければならない。

 

半獣半神としての人

 

複雑さの究明は、本来的な意味で、生活する存在者としての意味で人間の本来の目標に反する。私たちの能力は、真理を解明することよりもずっと、仮にそのようなものがあるとしての話だが、狩りをし、子を育て、やがては死んでいくものとしてのものであろう。この全知全能たる仮想、神のような理想と、かつて獣から進化した存在との間にあるのが人間であろう。我々は我々が簡単に構築して夢想する理想としての存在者であらんとする願望とそれに反するものとしての存在者との間にあって、様々な予想できない結果を生み出すに違いない。

 

デジタル世界の詩人

 

この予想できない結果としての現象に対して私たちはなんと名付けるのかは巧拙は別として詩的作業と言えるかもしれないが、私たちはこの自らの詩的センスに翻弄されるところがあるかもしれない。

 

私たちは記憶だけが学習に基づくものと考えるかもしれないが、これは個体的学習という意味での学習の概念に近い。そうではなく、私たちはこの個体的学習とは別に種族的学習の結果としての存在者でもある。それは遺伝的な結果として現れているところもあるが、私たちが先験性という場合の経験に先立つ学習能力は種族的学習に基づいている部分はあるかもしれない。

 

(※)個体的学習および種族的学習という概念はウィーナーの概念である。

 

中間概念および平衡概念の計算および学習

 

私が1と0についての話を持ち出したのは、バランス論、平衡について考えるにあたっての話である。ファジーという曖昧さは、その見た目上のぼやけた、中間的な印象とは別に非常に高度に複雑な計算やテクノロジーの上に成り立っている。政治学的な中庸論や経済学的な公平な社会とは非常に込み入った議論が必要であろうという予測のための一つの前提として持ち出したい考えである。

 

余談であるが、コンピューターにおいてマイナス概念すら1と0の組み合わせによって表現される。例えば4バイトのメモリにおけるマイナスの概念は、どこかのビットにおいて1か0かがマイナスを示すわけではない。あくまで情報工学における考え方であるが、人間の認識においてはマイナスという概念が「ある」のだと思う。