【思想・哲学017】心象の複合体シミュレーターとしてのヒト
my日本からの転載
2011年11月30日
手札
mixiからの転載
我が国における選挙活動における言説を要約すれば「私を政治家にしてくださったら、社会を良くしますよ。だから私に投票してね。よろしくおねがいしますね。」と言っているだけで、実際にそれ以上ではない。
そして、現に具体的現状認識ができていないが故に、何の具体策もないが故に、政治の混迷をもたらしているのではないかと勘ぐりたくもなる。
これは単に政治家の責任とは言えないだろう。なるべくしての結末であろう。
というのは、私にはより長期的な時流の文明史的な陥穽であるように見える。
目次
- 心象と言語活動
- 文章の複合体が目指す幻影「真実」
- 言語の非伝達目的的性質
- 言語の伝達目的的性質
- コンピューターの同時進行性とヒトの単一進行性
- チューリングマシーンとしてのヒト
- 現代人の労働者としての性質と政治活動家としての性質
- 有権者の投票の背後にある言語活動の流通
- 単純心象の複合体としての全体もしくは世界イメージ
- 単純心象の複合体であるイメージのシミュレーターとしてのヒト
- シミュレートされた心象の精密性と粗雑性
- 政治活動がシミュレーションとして粗雑であるということ
心象と言語活動
言葉で物事を伝えるというのが人間の基本的な行動の一つである。言語活動の本質は心にイメージしているものを言葉に置き換え、また置き換えられた言葉からイメージを起こさせるものであると私は思っている。
言葉が示せる可能性のあるものは、モデル化された像であり、「静止した写実的な風景」であるというよりも、多くの場合はむしろ「単純な図式的なもの」であると思っている。
文章の複合体が目指す幻影「真実」
文章は基本的に一つの文として独立しており、それぞれ各文章の関係性があるだけで、それをどのように構築しようとも、徹底的にそれらの複合体である。
そういったものを仮に「真理」や「真実」としたならば、その意味において「真理」であり「真実」であるに過ぎないと私は思っている。
こういった使用は日常的に使われているし、恐らくどんなに徹底的に物事が論じられようが、この意味の「真理」ないし「真実」の枠組みを出ないものであると私は確信している。
言語の非伝達目的的性質
人は日常的な生活において言語を用いている。しかし、言葉の存在はイメージを正確に伝えることを目的として存在しているわけではない。
例えば、目の前に蜂が飛んできて「ギャーーーーー!!!」と叫んだとする。
この叫び声に目的があるかどうかを判定する事に何の意味も見いだせない。
もし貴方がそこにいたとしたら貴方はその叫び声に驚いてそちらの方向に気を取られるだろう。
どちらも反射的にそうなっただけかもしれないが、ここで両者の意図などを考えたところでなんの意味も見いだせない。
言語の伝達目的的性質
このような側面を認めつつ、言葉活動において自分が何をイメージしているのかを相手にイメージしてもらう、あるいはさせるという目的が重要な要素であることは疑いようがない。
そしてそれは日常的な事柄ばかりでなく政治的な事柄に至るまで、重要な要素であると思う。
また別の要素として、人はひとつの命題をイメージするための条件というものも存在する。
基本的に一つの命題をイメージするための、言語を聞くあるいは読むためのインプットするという作業において、他の命題をインプットするという作業を遠ざけなければならない。
コンピューターの同時進行性とヒトの単一進行性
コンピューターであれば、複数の系列の情報をほぼ同時に読み込むことができるが、人間にはほぼできない。
またコンピュータであったとしてもひとつの系列の情報に対して時間をかけて丹念に読み込まなければならない。
つまり、一瞬にして0と1の情報の集合をインプットできないのと同様に、人は言葉を一つ一つ追わなければならない。
コンピュータのフィードバックと生物である人のフィードバックは必ずしも同じであるわけはないが、少なからず類似性は見いだせる。
生物の認知規制を応用して発達した技術なので当たり前といえばそれまでかもしれないが、それはともかく人間のインプットのメカニズムにはそういう要素があることは否定しがたい。
チューリングマシーンとしてのヒト
私はこういった性質を「レコードの針」のようなものだと思う。
我々の言語活動もこのような読込装置と類似する性質を持っている。
つまりどんなに家に本が堆積しているといっても、当たり前の話だが一つ一つ読まなければ、一文一文読まなければ、その情報は入ってこない。
言い換えるとイメージしたという経験を持つことができないのである。
そのことをきちんと記憶しているかどうかという問題はまた別の話になるが、私たちは言語を聞いたり、読んだりするためにはそれ相応の時間を費やさなければならないのである。
現代人の労働者としての性質と政治活動家としての性質
私たちの国は民主政体という形を採用している。
という訳で私たちは彼自身と彼の家族の生計に関わる言語活動および労働を行わなければならないのと同時に、一応括弧付きではあると言われてしまえばそれまでかもしれないが、政治に参加していることになっている。
私たちにとって政治とはなんであるのかという問いはなかなか答えにくい、あるいは判然としないところがある。
一応は国政に関わる代表者を投票という形をもって選出するという「権利」が「日本国憲法」によって認められている。
これだけをもって私たちの政治とはこれであるとは言えないであろうが、少なくともそういった形の方法が採用されているという事実はある。
有権者の投票の背後にある言語活動の流通
私はそれ以上に、流通している言説やその流通様式、そしてその規模に注目する必要があると思う。
私たちの投票は、流通している言説からの考察が反映されているのであり、私たちにとって重要なのはその投票それ自体ではなく、この流通している言説やその流通様式、またその規模であると見なすべきだろう。
流通している言説やその流通様式、またその規模と簡単に表現したが、たとえばTVでコメンテーターや学者、コメディアンが発言することに限らず、会社や学校で流通している言葉、街角で耳に入る言葉、そういったものをすべて含めて言説であるとしたい。
更に言えば、そこで目に入るものすべてが当然に私たちに関わっているものであるが、ここでは言説に限定して論を進めたい。
単純心象の複合体としての全体もしくは世界イメージ
さて話を元に戻そう。
私は言語活動の本質は、イメージを言葉に変換し、その変換された言葉からイメージを抱くものとした。
このイメージにも様々な内容があるだろうが、命題化されたものは根本的に非常に単純な構造をイメージさせるものに留めるだけであり、その単純なイメージを複合的に捉えることを目的としている。
私たちは何をイメージしようとしているのだろうか。
それは私たちの日常に関係することである。
自分たちがどういった立場にあるのかとか、自分たちはこれからどのような行動を取るのかなど、現状認識や未来予測に関わっているものが非常に多い。
どんなに空想的なイメージであったとしても、私たちの経験と一切関係がないものが存在するとは思えない。
現状認識とは時間的な流れを考察すれば、過去がどういったものであったのかという遡及も関わっている。
今この瞬間における過去、現在、未来についての考察が、イメージの主眼に置かれるのが、実際の生において大きなウエイトを占めている。
単純心象の複合体であるイメージのシミュレーターとしてのヒト
言論とはそういったものに関わっているものである。
また、政治とはそういったものに関心を抱くことでもある。
もう少し付け加えよう。
未来など誰にも解らない。
いいや現状や過去に起こったことさえも人は理解しているといえるだろうか。
先ほど「真理」や「真実」について触れたが、もし私たちが理解しているといったならば単にその意味において理解しているに過ぎない。
私たちは未来がどういったものになるのか予測し、過去がどういったものであったのかデータを頼りに推察しつつ、どのように行動するのかを決断し、実行するのである。
言い換えると時間軸の中でのシミュレーションを曲がりなりにも構築していなければならないはずである。
言語活動において重要な役割を持っているのは、この曲りなりのシミュレーションの提示である。
このようなシミュレートされたイメージを提示することはかなり労力がいる作業である。
また、そもそもシミュレートする作業それ自体も難しいことである。
またこのシミュレートを提示することにはリスクがある。
何故なら徹底的に緻密なシミュレートは、実際に起こるであろう事柄との比較対象として優れているが故に、正誤判定にさらされやすいからだ。
従って、人々はこのような作業を通常丹念には扱わない。手札は見せないのである。
シミュレートされた心象の精密性と粗雑性
しかし、このような作業が杜撰になればなるほどに、私たちはより原始的な人間の様相に戻ることになるだろう。
それは隷属の道に繋がることになるのではないかと思う。
それでいいといえば実際はそれまでのことであろう。
また、私たちが想像し得るシミュレートされた未来図など正しいものであるなどと言えるはずがないと思う。
しかしながら、私たちは良かれ悪しかれ生きている以上はこういったシミュレートすることと無縁ではおれない。
そしてそのイメージを共有し検討することとも無縁ではおれないだろう。人が手札を見せない場合、実は彼は何の手札も用意していない可能性がある。
政治活動がシミュレーションとして粗雑であるということ
一例として、我が国における選挙活動における言説を要約すれば「私を政治家にしてくださったら、社会を良くしますよ。だから私に投票してね。よろしくおねがいしますね。」と言っているだけで、実際にそれ以上ではない。
そして、現に具体的現状認識ができていないが故に、何の具体策もないが故に、政治の混迷をもたらしているのではないかと勘ぐりたくもなる。
これは単に政治家の責任とは言えないだろう。なるべくしての結末であろう。
というのは、私にはより長期的な時流の文明史的な陥穽であるように見える。
・・・書いてて整理しきれん。まあ、整理するための材料ということで・・・