日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学022】TEAM図式と情報および解釈

my日本からの転載
2012年07月06日
解釈についての覚書

私たちが「解釈」と見なすものは実際は「解釈」されたものを「表現」したものである。ウェブ上においてであれ、あるいは日常生活においてであれ、如何に解釈しようと、私たちがそれを他者に示す場合、それを「表現」によって表さなければならない。

目次

 

 

 

 

【覚書】政党を論じることに関してより

【政党や派閥を論じるための前提的諸解釈について】

ここでいう「前提的諸解釈」という言葉については、単に「諸資料」と置き換えた方が伝わりやすいかもしれない。

もう少し説明するならば、政党や派閥またそれを構成する人、それらおよび彼らの経歴や評価、それに関連した図や表、映像的資料などを指していると考えてもらえると有難い。

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<解釈のための前提的諸解釈についての覚書>

 

前提となる諸解釈

 

先に述べたように「前提的諸解釈」というのは、個人が解釈を行なう上での既に存在している「諸資料」の事を指すと考えて貰いたい。

 

解釈の流通性

 

その上で、それら「諸解釈」の「流通」について考えたい。「諸資料」となりうる可能性を秘めた、あるいは現に「諸資料」となっている「諸解釈」についての「流通効率」について考えよう。

 

TEAM図式<伝達・表現・蓄積・尺度>と利益効率

 

「流通効率」を考える上で、「伝達効率」「表現効率」「蓄積効率」「解釈効率」および「利益効率」という側面も考えることができるだろう。言い換えると解釈が流通する上でのその「伝達」、「表現」、「蓄積」、「解釈」の容易さおよび困難さ、そしてその活動から得られる「利益」の容易さおよび困難さとでも言ってもいいかもしれない。

 

「利益または快」および「不利益および不快」を算出するものとしてのヒト

 

「利益」に言及するのは、解釈者が生活する存在者であることを忘れるべきではないという意味である。物事を「解釈」する上で、単純に判別することは困難であろうが、様々な意味における「利益」を得るかもしれないし、「不利益」を被るかもしれないのである。あまり功利主義的に数値的あるいは集合論的モデル化を行いたくないが、物事を「解釈」しながら、人は「生活」をしなければならず、この生活を抜きに考えられた思想の「流通効率」を考えることは現実的ではない。

 

伝達手段としてのウェブおよび地上波

 

例えば「資料」は「伝達効率」は相対的な意味でだが、ウェブ上で非常によい効率で流通するし、またテレビによる流通効率も非常によいものと考えることができる。ひと昔前ならばインターネットはそれほど普及しておらず、更にそれより前であるならばインターネットは存在していなかった。

 

ウェブによる伝達効率の変化

 

このような中で、かつてならば個人が書いた日記などは非常に「伝達効率」が悪かったのだが、今では日記でさえ非常に効率的に流通している。このことがいい事か悪い事であるかの判定はしないが、一昔前の、例えばかつての人々の日記などを、私たちはウェブ上で閲覧することなどできない。

 

表現の模倣性について

 

他に「表現効率」といえば、例えばコピー・アンド・ペーストによる表現は非常に流通効率がよいと言える。逆に言えばこの流通効率の良さゆえの弊害もあるだろう。容易に流通しやすい情報、電気的な情報は人口に膾炙しやすいが、そうでないものは淘汰されてしまう。安易な表現がパターンとして定着しやすくなると考えることもできるだろう。

 

流通するデマゴーグと血肉を具えた存在者

 

ちょっとした冗談や流言が一気に社会において駆けまわるというのは特に今日より始まったものではないにせよ、根拠のない情報というのも簡単に流通してしまうということはよくあることである。私たちはこれらの情報を個人において再構成する、あるいは再解釈する必要がでてくるが、私たちは骨格によって支えられた、血の流れた肉体的存在者、まさに生きている存在者の「解釈」というものの冷静に考える必要がある。

 

表現者としての存在者

 

私たちが「解釈」と見なすものは実際は「解釈」されたものを「表現」したものである。ウェブ上においてであれ、あるいは日常生活においてであれ、如何に解釈しようと、私たちがそれを他者に示す場合、それを「表現」によって表さなければならない。この「表現」というものも、媒体の中での「表現」、ある全体性の中での部分的なものとしての「表現」として表現されるとみてよいと思う。