日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【政治思想004】保守派を一元的に捉える革新派への反駁

my日本からの転載
2011年11月30日
保守を一元的に捉えようとする企てに対する反論
mixiからの転載
mixi用に書いたもので文体は左翼系読者(まあ読んでないだろうけど)も意識して書いている(配慮しつつ挑発調に)。
2011年11月27日

世界的には近代保守思想の系譜というのは、革新派のそれと同様に形成されてきた。そういった系譜を無視してきたのは何も革新派に限ったものではない。

 

実際には保守派を自認する方々とて近代保守思想の系譜をほぼ完全に無視してきたという事実は看過できない。

 目次

 

 

 

純化される保守・革新および右翼・左翼図式

 

一般的に、保守対革新、右翼対左翼といった、非常に単純化された、まるで数直線の上にでも言葉を配置したかのような杜撰さを持って物事を論じることは、比較的私達に相応しい論法である。

 

それと同時に「私は保守でも革新でもない」という高尚なお立場に逃げ込む方法も私たちらしい論理ではないかと思えなくもない。

 

恐らくは保守派、あるいは革新派に対して具体的な像がないと不安であるかのように、私たちは見事に虚像を作り上げている。

 

そのことに私自身小さくない不満を覚えるが、かく言う私もおそらくはこの単純化した図式、あるいはそれに類する分布図に人間の思想を配置しようと企ててもいるのである。

 

保守が左翼思想と大きく分類を異にしているということ

 

保守主義とか保守思想などと今日呼ばれている思想は、共産主義社会主義のような思想とは幾分違った角度で捉えなければならないということに一体どれくらいの人々が真剣に検討しているか、私個人には判然としない。

 

例えば、近代保守主義の祖と一般的にみなされている人物にエドマンド・バークがいるが、彼自身は自らを保守主義者だと名乗っていない。

 

彼自身は同時にイギリス保守党の前身であるトーリー党の政治家ではなく、ウィッグ党の政治家である。

 

単純理念・理論なき保守

 

一般的に保守主義あるいは保守思想などと言ったところで、共産主義社会主義のようにより定式化された理念や理論が存在するわけではない。

 

私が見るかぎり、反保守派にありがちな保守批判には、彼ら自身が嫌悪する価値観や考え方を、単に彼が嫌悪するが故にあまりにも大雑把に保守の価値観や思考と見なす傾向があるように見える。

 

保守派の意見対立

 

所謂革新派とは異なり保守派は、はじめから保守派それ自身と意見を闘わせなければならない状態にある。

 

彼らには先にも言ったように定式化された考えなどあるわけがない。彼らには革新派と比較しても理念による、あるいは理論による団結などほとんど期待できない。

 

革新派の定式は保守派には通用しないということ

 

そうであるにも関わらず、いわゆる革新派の方々は、保守派は誰々を支持しているとか、保守派はこの政策を支持しているなど、安易に定式化してしまう。

 

それは革新派特有の定式であり、保守派のそれとは必ずしも一致しないだろう。

 

革新派と異なり保守派は強い団結・結社意識を持たない

 

保守派はすでに保守派同士で対立しているという事実を極度に無視した言説によって、非常に狭い、稚拙であるという保守像を作り出している。

 

そういった保守像を作り出しているのには、そういった保守派内での巨大な分布図を無視した保守像をずっと戦後日本において一貫して持ち続けてきたことにも原因があるだろう。

 

その点についての細々したことをここで言うつもりはないが、保守=右翼=日帝時代などという使い古されたレッテルが実際に相応しいものであるのか、あるいは相応しいものであったのかはもう一度点検されて良いのではないかと私は思う。

 

戦後日本が見逃してきた近代保守思想の系譜

 

世界的には近代保守思想の系譜というのは、革新派のそれと同様に形成されてきた。そういった系譜を無視してきたのは何も革新派に限ったものではない。

 

実際には保守派を自認する方々とて近代保守思想の系譜をほぼ完全に無視してきたという事実は看過できない。

 

一般体な保守派は団結・結社意識がないために厳密な意味での内ゲバにはならない

 

当然のこととはいえ保守派は確かに革新派を嫌っている場合が多いが、それと同時に自分と考えを異にする保守派に対してもそれ相応に嫌っている。

 

その点を革新派の方々はあまりにも安易に見逃しすぎているのではないかと思われる。

 

これは時に保守派の内ゲバのようなものに見えるかもしれないが、革新派の内ゲバとは少し性格は異なるだろう。

 

現状を重視するということ・単純化に陥らないことを重視すること

 

未来への展望について理念や理論に多くを委ねる革新派とは異なり、現状を見据えて様々な理念や理論を検討した上で政策を決定するのが保守派が行わなければならないことである。

 

現段階で我が国の保守派が高度に情報網を駆使して政策を検討し、決定しているとは確かに思えない。また確固とした理念や理論がない以上は、ある意味で説得力にも欠ける。

 

しかしそれこそが保守派なのである。保守派が何か古臭い因習にとらわれているといった批判は確かに正しい部分もある。

 

しかし、実は革新派よりもずっと柔軟性を要請されているのも保守派なのだと私は思っている。保守派の信仰の自由、基本的人権の尊重などは、革新派のそれよりもずっと嘘っぱちである。

 

逆に言えば、そういったある意味で古臭い価値観にとらわれていないともいえるのではないか。仮に真剣にそういった観念にとらわれているとしたならば、彼らはある意味で革新派、もう少し正確に言葉を選ぶならばモダニストなのであるといえよう。

 

革新派が捏造する保守の虚像

 

私個人の意見ではあるが、革新派の保守批判は案外につまらない。

 

それは革新派が保守派を嫌う理由の一つ、保守派のくだらないレッテル貼りと同じ方法を使用しているだけに過ぎないのであり、そういった意味で退屈であるのだ。

 

保守思想の系譜を言論として正しく検討しなおす必要性

 

少なくとも保守と革新の新しい枠組みを模索するのであれば、革新派が行なっていた革新派の系譜に触れるという方法と同様に保守派のそれに当たるべきだろう。

 

これは実は所謂保守派が怠ってきたことであり、この点については思想の右左の別を問わずに検討しなおすべき時期にあるように私には思える。