日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学020】理性を考察するということ

my日本からの転載
2012年07月04日
【覚書】理性について

目次

 

 

特定の学問について論じること

 

歴史や政治、あるいは社会や経済について、あれこれ論じたいという願望は、それなりに私の中にある。

 

決して専門的に学んできた訳ではないにしても、既存の歴史解釈や政治思想、社会学や経済学にも致命的な欠陥があるとしたならば、その欠陥のある考え方を盲信したままにその考え方を喧伝して廻るよりは、疑念と向き合いながら幾分のんびり構えたほうが私の性に合っている。

 

学問を論じる者の理性の考察

 

歴史や政治、あるいは社会や経済について論じたいという願望を抱くのと同時に、私はそれと並行してそれと関連したことも同時に論じたいという願望も抱く。

 

それは歴史を政治を社会を経済を論じる基盤となっている理性についてである。より正確にいうならばヒューマン・ネイチャーについてである。ひとまずは理性についてという表現にとどめよう。

 

理性についての考察の歴史――哲学の時代

 

理性について考察するという点で言えば最も古くからそれと関わってきたのは哲学であろう。当然に神学や医学、法学といった古い学問が理性に無関心であったとは思わない。

 

しかし最も深く理性について考えてきた学問は哲学であったろうと思う。

 

稚拙なものであるという自覚もあるが、保守思想や歴史、あるいは社会論や経済論を論じたいのだが、それとは別に理性について考えるということを私は手放したくない。

 

私が何かを論じる時、私は自分の考えや物事についての評価を提示することだろう。その自分の考えあるいは評価について何故そのように考えるのかも私は考えなければならない。

 

自らのあるいは人類の理性を凝視するという行為

 

これは義務とは言えないだろう。あくまで願望である。何故そのように願望するのか。自分がそのように考えるあるいは評価する理由を考えないことが嫌だからである。

 

私は複雑感情の中の自己への嫌悪の原因の一つがこの種の嫌悪にあると思う。瞬間的にはこの種の嫌悪感は解消されうるであろうが、しかし、この嫌悪感を克服することはできないだろう。

 

もしも、嫌悪の対象を他者に転化しなければの話だが。

 

考えることについて考えるあるいは考えることについて考えた哲学あるいはそれに類似する考えを学ぶことを手放したくないという願望に背を向けた瞬間、私は私を喪失しそうな気がする。

 

この嫌悪感と向き合うこと、あるいは嫌悪感を覚えることについての他人の評価など、私には別段どうでもいいことであるように思う。

 

おわりに

 

ここでは簡単に何故理性に言及するのか、あるいは哲学に触れるのかについて述べるにとどめ、理性についてどのように考えているのかを述べることは他の日記に委ねることにしよう。

 

また、単に理性に言及すること、哲学に触れることにとどめることにも違和感を覚えるのだが、歴史解釈や社会情勢についての考えなどについてもまた別で扱いたいと思う。

 

理性に関して書いた日記などは相互にリンクを設けることによって、まとめて表現することの手間を省きたいと思う。