日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【歴史006】フォックスのインド法案についての演説⑥

my日本からの転載
2012年06月30日
【第6回】フォックスのインド法案についての演説

もしも今日われわれがインドから駆逐されるならば、われわれのこの統治の不名誉な期間を通じてそれを占領していた者が、オランウータンか虎よりも多少ともましな集団だったことを教える痕跡は何一つ世に残らないだろう。

                エドマンド・バーク

 

自分たちが置かれた部署で自らの最善を尽くさなければならない。人間の置かれた場所がその義務を支持する。

                エドマンド・バーク

 

 

【51】


グジャラートのガイクワルもこの時の協定により、ラグナート・ラオと比較してもなんの保障もない状態でマラータ同盟に引き渡された。

 

ゴフドのラーナに至っては彼を見捨てるための長い交渉が続けられた。当初、ヘースティングズはこれを拒否していたが、ゴフドのラーナが背信的人物であることが解ったという理由で見捨てても構わないということになったが、それでも妥協案によって彼のための方策が考えだされた。

 

マラータ同盟の首領マハダージ・ラオ・シンディアは協定に基いて東インド会社がゴフドのラーナに与えていたグワリオルの城を攻撃中であったがこれを受け入れた。

 

既に町は占領し尽くされており、後は要塞を落とすだけという状態であった。また、シンディアはカマック大佐侵入に際しゴフドのラーナを救助していたすべてのラージャを膺懲されるに至った。ゴフドのラーナは代理人を通じてこの敵対行為をヘースティングズに通報したが黙殺された。

 

【52】


マラータ戦争において東インド会社は概ね同盟者に対してはこのような態度であった。またマラータ同盟はヘースティングズをはじめとする東インド会社役員に対して「イギリス政府とマラータ政府は、互いに他者の領地内での保護を求めて逃亡する首領、商人その他の徒輩に対して決して便宜を与えないことを同意する。」という一条項を盛り込ませた。

 

これにより引き渡された盟友のための如何なる例外も認められることなく合意されるに至った。

 

【53】

 

ヘースティングズ氏は、これらの協定を一貫する平和的意図と公的信義の体系の総仕上げとして、絶対的征服なる条件による以外のいかなる平和もすべて彼自身の権限から排除するとの断固たる決心を固めた。

 

協定に際して、マラータ同盟および東インド会社は互いにマイソールのティプー・スルタンといかなる講和も相手の合意なしに締結しなければならないという条文を盛り込んだ。

 

イギリスとフランスはもし4ヶ月以内にイギリス東インド会社のインド内の同盟者が講和に加わらない場合、互いに自軍を撤退する義務を負っていた。

 

この協定は、もしマラータのペシワーがこの条約を適当であるとみなす限り、戦争はいつまでも継続されることを意味していた。つまりフランスとの条約を破棄するか、マラータとの協定を侵犯するか、どちらかが不可避であったのだ。

 

イギリス東インド会社は幸いにしてそのどちらかを選択する自由があったのだとバークは皮肉交じりに言う。

 

【54】


バークは先にイギリス東インド会社におけるその勅許状の乱用について三つの点をあげていたが、その最後は、彼らに信用の寄せていた者は誰一人の例外もなく残らず破滅したという点であった。

 

少し前に挙げた、ラグナート・ラオ、ガイクワル、ゴフドのラーナもそうであるが、ムガル帝国の皇帝の現在の身の上もそうであり、アウドの大臣の隷従と貧窮、ベナレスのラージャの流亡、ベンガル太守、タンジョールのラージャとその王国の零落と捕囚、ポリガールの破滅、そしてアルコット太守の自滅がそれである。

 

アルコット太守が侵攻された時、そこには軍隊も食料も貯蔵も何もなく、あるのはただ東インド会社に対する100万ポンドとそれ以外に対する400万ポンドの債務だけであった。彼が手にした富はマドラス郊外の彼の公邸の地代として消費されてしまったからである。

 

これに較べてマラータ諸国、デカンのスーパ、マイソールのハイダル・アリは権威と資力を維持したままに富んでいる。イギリス東インド会社に対する安易な信頼の結果、その盟友たちは尽く破滅していったのだ。

 

【55】


バークはこれらの東インド会社の暴政に対して自分への投票が黙認に繋がるのならば、自分は「この世で最も極悪非道な人間」とみなされても仕方がないと捉えている。

 

【56】


次にバークは内政的統治を分析する前に、東インド会社による悪政とかつてのインドの征服者との違いを比較する。

 

【57】


バークはアラブ人やタタール人、ペルシア人によるインドへの侵攻は圧倒的に極端に残酷で血生臭かったが、それに対してイギリス東インド会社は流血を伴わかなったという前置きをした上で、最初の征服者、つまりアラブ人やタタール人、ペルシア人の侵攻の方が好ましいものであったと言う。

 

簡単に言えば、彼らは確かに残酷ではあったが、速やかにその狂暴さを緩和したという。かつての征服者は彼らが住み着いた土地と盛衰を共にしていた。

 

父祖はその子孫に対し希望を繋ぎ、子孫は父祖の記念碑を仰ぎみた。確かに征服者は暴力と圧制によって貯えも得たかもしれないが、最終的にはそれは民衆の手に戻ったのである、とバークは言う。

 

たとえ無秩序な状態で、かつ政治的抑制がほとんど働かなかった状況下であっても、自然は依然として機能し、その源泉が枯渇することはなかった。

 

インドはそういった中にあって、通商、産業、交易で繁栄し、強欲と高利のなかであっても国富は保存され活用された。生活資金は依然として高かったがそれでも資本全体はインド民衆の努力によって拡大していたと言う。

 

【58】


これに対してイギリス人による統治はこれと全く反対であるという。タタール人の侵攻は確かに惨害を招いたが、イギリス人はインドを保護によって破滅させているという。

 

かつての征服者は敵意であったが、イギリス人は友情であった。しかしそうであるにも関わらず、イギリスがプラッシーの戦いで勝利し、イギリスの実効的支配にうつって20年という時が流れたが、依然として最初の日と同じように粗雑なままである、とバークは見なしている。

 

現地のイギリス人の中には白髪混じりの人間もいなければ、若者は現地人と全く交流を持たず、同情心のかけらも見せずに統治している。

 

未だにイギリスにいるかのように振る舞いながら、一攫千金で身をたて、本国で立身するための地歩を固めている。それだけが目標である。彼らはあらゆる欲求にかられて次から次へと現地人の富に押し寄せてくる。これをバークは「絶望的な無限への展望以外に何も映らない。」と表現する。

 

イギリスは今日まで、ただの一つの協会も病院も宮殿も学校も建てなかった。イギリスは何一つ橋梁も公道も築かず、水路も掘らず貯水池も作らなかった。

 

われわれ以外のどんな種類のどんな征服者でも、何らかの誇示もしくは慈善の記念物を形見に残している。

 

もしも今日われわれがインドから駆逐されるならば、われわれのこの統治の不名誉な期間を通じてそれを占領していた者が、オランウータンか虎よりも多少ともましな集団だったことを教える痕跡は何一つ世に残らないだろう。

 

 

この科白を私は一人の日本人として複雑な感情を持って眺めざるを得ない。それは単に第二次世界大戦からインド独立までのことを思うのではなく、今日の経済学や教育学なども含めて非常に複雑な感情を持たざるを得ないのである。

 

【59】


インドに渡ったイギリスの少年たちは、その本性においては本国の少年とはなにも変わるところはない。しかしながら、彼らの頭脳がそれに耐えうるよりも前に権力欲や金銭欲に支配されていき、早熟な権力の行使に人情や理性によった歯止めがかからなくなるだろうとバークは指摘する。

 

「インドの地では織機から布地を引き裂きベンガルの農夫からわずかな米塩の資を強奪して、彼らが自らの被る被害や加害者を忘れる唯一の手段たる阿片を毟り取ったその手を、ここでは製造業者や農業者が正しい几帳面なものとして祝福するだろう。」

 

バークは更に、インドにおいてイギリス東インド会社の行なっている統治の方法がイギリス本国に逆輸入されるであろうことすら見抜いている。私は事実そうなったのではないかと思う。産業革命におけるその弊害というのはもしかするとイギリスのインド統治とは無縁ではなかったかもしれない。

 

東インド会社を糾弾することは、時に彼らや彼らの支持者を義憤させることこそあっても、誰からも感謝を受け取る事はないだろう、とバークは言う。そしてその使命を果たすためには、楽天的であり、情熱的であり、かつ熱狂的である必要があるという。

 

先にも指摘しているが、インドにおける圧制の罪を告発することは、何の面識もない人間を全力で助けることに等しい。それゆえに厳しい事業であり、そして現にこの告発による裁判はヘースティングズの全面的無罪に終わったのだ。

 

【60】

 

私も確かにこの世間一般の性情に自分の調子を合わせるつもりである。ただし一方で私は、自分には極めて痛々しい姿に映る行為を冷厳な文体で描写することが、当の被害者たる民衆自身および彼らに対するすべての真正な人間的情愛への当然な配慮に逆行する、という事実も知っている。

 

私は真実と本性への敬意からあえてこの手法を用いたく思うが、個々の人間や事柄について可能な限り形容句を手控えるつもりである。

 

 

人間関係一般にも言えそうなことだが、何らかの同情心や感情への配慮ゆえに激しく指弾する、激しく罵るというのは非常によく見られることであるが、それとは逆にそれでもなお冷厳な文体を維持しようとする態度にはそれなりの理由があると私も思う。

 

そしてその態度は別の性質を伺わせるというのが普通であろう。人間味のない、専門教授のような態度に当然見えて当たり前なのである。

 

冷静な態度を維持している人間を前にした場合、それでもなお最低限見守る必要があろうというのは思うが、必ずしも冷静な人間のその態度の根拠というのは理解してもらえない可能性もあるだろう。

 

話を戻すが、バーク自身も実際にインドの細かい現状をどうしても理解しきれないがゆえに、暴政の手口を理解することの困難さや、聞いたこともない奇矯な名前の民衆に対しても共感を抱くのは難しいだろうとあえて告白している。

 

そしてそうであるがゆえに「言葉」の使い方も意味がよく解るように丁寧に扱わなければならないだろうともいう。

 

自分たちが置かれた部署で自らの最善を尽くさなければならない。人間の置かれた場所がその義務を支持する。

 

バークはこのように考え、例えそれがどんなに困難な状況に置かれていたとしてもこの義務を遂行するために最善を尽くすのが自分の役割なのだと構えていたのだと思う。