日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【歴史004】フォックスのインド法案についての演説④

my日本からの転載
2012年06月26日
【第4回】フォックスのインド法案についての演説

バークは「協定の恒常的かつ体系的な破棄の流儀」がアジアにおいてイギリスの代名詞のように扱われていることに強い不快感を顕わにしている。

 


【31】


先に分類した東インド会社による政治的行動に分類されるところの外部との接触における信託の乱用について、三つの点を挙げている。

 

①インドにおいて彼らが接触する機会を持ったインドの大小の王侯や国家の有力者で、彼らの手で売り渡されなかったものはただの一つもない。


②彼らが締結した協定で後に彼らによって破棄されなかったものはただの一つもない。


③およそ東インド会社に多少の信頼を寄せた王侯もしくは国土で破滅しなかったものは全くただの一つも存在しない、

 

彼らが部分的に多少とも安全と繁栄を確保できたのは、ブリテン国民に対する彼らの牢固たる不信と抜き難い敵意を保持し続けた程度に応じてである。

 

【32】


これは外部との政治的信託だけについてだけではなく、内部における信託についても全く同じであると断言している。バークは特別委員会においてこのことを報告しており、その報告を議会で援用するための用意があるという。

 

【33】


東インド会社が最初に金銭的な目的のために売り飛ばした有力者は他ならぬムガル皇帝であるという。

 

この時の皇帝は第13代シャー・アラム2世であり、この時すでにムガル帝国は第6代皇帝アウラングゼーブ時代に迎えた最盛期から急速に勢いを失っており、名目だけの皇帝となっていた。

 

この人物は非常に聡明で博識な人物であったようだが、1765年東インド会社とのアラハバード条約によって完全にその地位を失墜させる。

 

それ以降もバークが言うところでは、インド国内では通貨に皇帝の名前が刻まれ、司法も皇帝の名のもとに行われ、寺院においても崇拝の対象となっていたようであり、インドにおける皇帝への忠誠の大きさを指摘している。

 

【34】


バークは、自分が生をうけて以来、また若い議員が生をうけて以来、ムガル帝国に対するイギリス臣民による傍若無人な行為が議会において討議にかけられるとは想像し得なかっただろうといい、この問題に取り組むことは今からでも決して遅くはないと訴える。

 

【35】


シャー・アラム2世は幾度かの戦争の後、アラハバード条約によってビハールベンガルオリッサなどを東インド会社に割譲し、さらにコーラアラハバードという地域(インドがネパールと国境を接するあたり)のみが私的王領地に指定された。

 

この時、皇帝に対して26万ポンド(260万ルピー)の貢納を東インド会社は約束したが、その約束はヘースティングズによって反故された挙句、この残された二つの領地さえも、アワド太守シュジャ・アッダウラに売り渡された。

 

これによってシャー・アラム2世は貧窮にあえぎ、ムガル帝国は没落していく。

 

【36】


次に売り渡されたのはロヒラ族である。ロヒラ族とはインド北部のアフガン系の民族でムガル帝国衰退後にヒルカンド(ネパールと国境を接するあたりでアワドの北西にある地域)を支配していた。

 

彼らはデカン高原地域を支配していたマラータ同盟から圧迫を受けていた。これによりアワド太守アサフ・アッダウラに救助を求めていたのだが、ベンガル総督ヘースティングズはアワド太守に兵を貸してロヒラ族を撃滅させた。

 

背景としてロヒラ側がアワド王国に対して支払いを無視していたというのもあったようだがそれはともかく、ロヒラの首長ハーフィス・ラメットの抵抗虚しく首級を取られ、首級を金銭と取引している。

 

これによりロヒラ族はごく一部の地域を除いて虐殺、追放される。ロヒラ族が支配していた地域は豊穣な土地であったがロヒラ戦争の結果荒廃してしまう。

 

この戦争の結果、東インド会社はアワド太守よりロヒルカンドの地を譲り受けることになったのだが、この後、アワド王国も東インド会社による介入により力を失っていく。

 

【37】


この戦争において指揮をとった士官チャンピオンは、良心の呵責からヘースティングズを問いただしたところ、逆に叱責される形になってしまう。

 

「この軍司令官の同情心と文民総督の峻厳さの衝突の生み出した分裂が、今日はたして解消されているのか、私は疑わしく思っている。」

 

【38】


プラッシーの戦いはヘースティングがベンガル総督になる前の話であるが、ベンガル太守シラジ・アッダウラはイギリス東インド会社の軍人クライヴと謀議していたミール・ジャファルの裏切りもあって東インド会社軍とのプラッシーの戦いで戦死する。

 

その後ミール・ジャファルはその息子ミール・カシムに地位を奪われ、その後復位するのだが、その後も東インド会社の巧みな謀略もあって政局は安定せず、この一連の政変によって東インド会社によるベンガル支配は決定的なものとなる。

 

マラータ同盟もまた東インド会社の介入により内紛が引き起こされる。第1次マラータ戦争では東インド会社は撤退を余儀なくされたが、その後の第2次、第3次マラータ戦争によって1818年にマラータ同盟は滅亡する。バークが言及するのは第1次マラータ戦争までのことである。

 

南部においてもアルコット太守ムハマド・アリと画策してマイソール王国、タンジョール王国などに介入して行くが、これと同時に東インド会社はアルコット太守に帰属するティネヴェリをオランダに売ろうと画策する。

 

【39】


東インド会社は巧みに現地有力者と手を結んでインド内の諸勢力を攻略し壊滅させていく。この手法はインド全域で展開されていく。

 

【40】


バークは次に東インド会社が自ら締結した協定をひとつ残らず破棄したという事実を説明する。東インド会社がインド全域に勢力を伸ばすにあたってこれら協定は巧みに利用された。

 

ベンガル総督は最近の取締役会への極めて奇妙な手紙で、自分が確かに公的な信義の履行に際してあまり几帳面でなかった事実を自認した上で、もしも公的な信義の厳格な観念が彼の仲間内で信奉されていれば、会社が失ったか取得できなかった金銭総額の正式な評価を述べ立て、彼自身と役員会を面白がらせてさえいる。

 

バークは「協定の恒常的かつ体系的な破棄の流儀」がアジアにおいてイギリスの代名詞のように扱われていることに強い不快感を顕わにしている。