日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【歴史001】フォックスのインド法案についての演説①

my日本からの転載
2012年06月24日
【第1回】フォックスのインド法案についての演説

疑いもなくこの事案は、われわれの名声にとってどうでもよいものではない。それはブリテン国民全体にとって途方もなく不名誉かそれとも偉大な栄光か、のいずれかを生み出すだろう。われわれは今日晴れがましい舞台に立っており、全世界がわれわれの挙動を注目している。

                    エドマンド・バーク

 

これら諸君が肝心のインド民衆の利益と幸福について、またわが国民がこの地域の通商と収入について有する利益に関して全く沈黙を守っている事実は、彼らがこれらの目的物の価値に何の関心も持っていないことの明白な現れである。

                    エドマンド・バーク

 

 

【1】
「これまで何年間か少しも休みなしに継続されてきた予備的究明に、私は確かに不十分ではあっても極めて長期間深く携わってきた。」という言葉が示す通り、バークはイギリス東インド会社によるインドにおける問題、バークの表現を借りると「過去20年間に及ぶ我慢強いインド民衆の難儀」に関する究明と救済策の考察にずっと取り組んでいたようだ。

 

なんの変哲もない文章であるけれど、私にとっては非常にバークらしい文章であるように感じる。20年間としているのは、七年戦争とインドにおけるフランスとのカーナティック戦争の結果のパリ条約以降のイギリス東インドの活動を指すのだろう。ベンガル地方でおこったプラッシーの戦いなども潜在的には含まれているようにも思える。

 

疑いもなくこの事案は、われわれの名声にとってどうでもよいものではない。それはブリテン国民全体にとって途方もなく不名誉かそれとも偉大な栄光か、のいずれかを生み出すだろう。われわれは今日晴れがましい舞台に立っており、全世界がわれわれの挙動を注目している。

 

結果から見れば、バークによるこれらの一連の活動はフランス革命批判とは異なり功を奏さなかった。今日であっても、イギリスのインドの植民地化はしょうがなかったんだとか、それが歴史的必然であっただろうという言葉が聞こえてきそうでもある。決定論的な視座に立てば尚更そうであろう。また、植民地化されてむしろよかったであろうという考えも聞こえてきそうである。

 

個人的にはバークによる一連の活動は非常に痛ましくも感じられる。またそう感じるがゆえに、こういった活動があったということは、私にとって人類というものに対する小さくない悲観的展望を前に微かな明かりが照らされているようでもある。

 

ここでいう名誉や栄光とは、当時のイギリス国民の名誉と栄光についてのみ語ってはいないだろう。脈々と受け継がれるであろう将来のイギリス国民および当時のイギリス国民の精神性に影響を与えたであろう彼らの先祖に対する名誉であり栄光であると考えるのが普通であろう。国民の名誉と栄光とは非常に重いものであり、またナショナリティに対する評価とは非常に難しいものでもあると思う。

 

【2】


この演説がなされた時はノース・フォックス連立政権(首相はウィッグ党ポートランド公ウィリアム)時であり、トーリー党ノース派とウィッグ党フォックス派が与党である。この連立政権は短命であり、およそ半月後、トーリー党による長期政権(首相はウィリアム・ピット)が続く。

 

あくまでバークの表現から推測するに、ウィッグ党のフォックス(共和主義者)あるいはバーク(近代保守主義者)などと親和性のないトーリー党議員ないしはノースあるいはピットなどと親和性のないウィッグ党員はこの法案に対して関心はそれほど高くなかったのかもしれない。短命の二大政党制連立内閣だけに野党というのが具体的にどんな感じであったのか知り難い部分がある。

 

党にもそれぞれ派閥や個人差があるのは当たり前であるが、特に当時のウィッグ党もトーリー党も一枚岩ではなかったであろうと思う。これから後、ウィッグ党、トーリー党は分裂と合同を繰り返し、やがて自由党と保守党という二大政党制に変わっていく過程など詳細に調べると面白そうだなと思う。

 

これら諸君が肝心のインド民衆の利益と幸福について、またわが国民がこの地域の通商と収入について有する利益に関して全く沈黙を守っている事実は、彼らがこれらの目的物の価値に何の関心も持っていないことの明白な現れである。

 

【3】


論者たちは世界で最も大事な事柄が係争中であるあるかのように口角泡を飛ばしながら、実際に彼らの主題は最も下級かつ低俗な訴訟に類する事案に過ぎない。この種の態度で政策と帝国の厳粛な審議の威厳を貶めてその真価を軽視する真似は、断じて本院にふさわしい正当な方針ではない。

 

バークはこの法案についての討論のなかで、ロンドン市長、市参事会員、市会議員などをめぐる訴訟問題と同じように扱われている現状に苛立っているように感じる。

 

【4】


この法案に関して、野党から誰がこの法案を考えだしたのかという詮索がされている。この種の詮索あるいは陰謀ではないかという疑いというのは良かれ悪しかれ人間の活動には不可避的なものであるように思える。このような疑いや詮索を前にしてイギリスの議会制民主主義には、率直に意見を述べることが許される伝統と素直に信念を開示する伝統が発達しているように思える。

 

そこには積み重ねられた作法があり、積み重ねられた思想があるように感じる。この点だけをとってみても、戦後日本の政治からは一切こういったものを感じないのが残念で仕方がない。表面的な作法と軽薄な思想の上に築かれるのは偽善的で中身の無い議論だけであろう。

 

実際はまともな政治家の方もいたのだろうと思いたいし、いるだろうと思いたいところであるが、そういった人物に焦点が当てられない、あるいは当てる能力がないのであれば、いないものと同じであろう。

 

【5】


先程も触れたが、この時の内閣は連立内閣であり、トーリー党のピットなどもバークに同意の立場を示しているということである。フランス革命が勃発した時のイギリスの首相はピットであったが、フランス革命に際してピットが採用したのがフォックスに見られるような考えではなく、バークの考えであったというのは興味深い。

 

およそこの主題を理解するほどの人間は、これらの事柄がおよそインド統治の改革の名前に値するどんな施策にとっても必須条件であって、これを抜きにしたものは単に人目を欺くにとどまらず、中途半端を許さないこの主題にあってはこの上なく有害であることを、一瞬たりとも疑わないだろうと私は確信する。

 

非常に強い語気で表現されるバークの思想は、その実直さ故に、非常に魅力的に感じられるかもしれないし、人によってはその実直さは疎ましいものと感じるかもしれない。

 

例えばトマス・ペインのバーク批判というのはバークが批判するところの前提に立ってバークを批判しており、その批判それ自体を反駁できていないと私は思う。彼らのような人たちにとってみれば、バークは疎ましかっただろうなと思えてしまう。

 

しかし私にはその強い語気にも関わらず、非常に冷静かつ温和な印象も受ける。そしてまた実践的かつ現実的ですらある。これらを兼ね備えた文章というものにはなかなか巡り合えるものではないと私は思う。近代保守主義が魅力的に感じるとしたならば、バークの人格的魅力にも依拠しているようにも思うのである。

 

【6】


法案提出者に対して様々な異論があったようだが、この法案は与野党が等しく不可欠であると考える点を備えていて、その点については不備がないことを強調している。

 

【7】


またこの法案が、イングランド国内の公的団体の特権を侵害するのではないか、あるいは憲法上の諸権利や立法府の自由と統合に悪弊を及ぼさないかという異論が存在していたようである。

 

【8】


これらの異論についてバークは言う。

 

もしもわれわれがインドの健全な統治の何らかの方法を案出できないとすれば、そのことはこの両国を永久に分離する根拠になりこそすれ、決してこの国土の民衆をわれわれの憲法のための犠牲にしてよい、という名分には絶対になりえない。しかし私は両者のこの種の利益が両立できないという事態を、どうしても想定できない。それとは逆に私は、インドを圧制から保護するに役立つどんな措置も必ずやブリテン憲法をその最も悪質な腐敗から防衛する保護策になる、と確信する人間である。

 

【9】


バークは異論のうちの一つ、法案が勅許状にもとづく人間の権利を侵害するものである、という意見に対して、「勅許状にもとづく人間の権利」を気取りに満ちた文言であるとし、そう表現する魂胆を見透かしている。

 


勅許状に当たるであろう英語のcharterは国王などの為政者または国の法的機関によって明文化された許可という意味である。charterの語源は、「紙」paperである。

 

【10】


バークは「人間の権利」に対して「人間全体の権利」、「人類の自然的権利」というものは確かに神聖であると言う。

 

この考え方は将来的に『フランス革命省察』の中心的な前提的信念として強調されてくる。

 

バークは仮に「勅許状にもとづく人間の権利」を認めるとしたならば、大憲章つまりマグナカルタの勅許状に求めるべきであると主張する。

 


マグナカルタ Magna Carta


イギリスの憲法の典拠として法令書の最初にあげられている大憲章。1215年にイングランドのジョン王がバロン(諸侯)たちの圧力に屈して調印した勅許状を基礎に、16、17年の改訂を経て、25年の国王ヘンリー3世の時代にさらに整備、完成されたもの。

 

97年に国王エドワード1世がこれを詳細に検討し、新法令の最初に加えた。15年の勅許状の内容は貢納金の徴収や司教の選任、司法、地方行政に関する王の専制を制限し、監視貴族による委員会を設置などがあるが、その後の改訂で財政、軍事の両面での王の徴募権の濫用防止などに関して、当初の条項の約3分の1が削減または改修された。

 

大憲章はその後も王と国民の関係を法的に制定するものとして尊重され、圧制に対する自由を守るものとして、17世紀のイギリスの「権利請願」や「人身保護律」の作成、18世紀アメリカの連邦憲法の制定の背景をなした。