日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学007】意志論1

my日本より転載
2011年05月22日
意志論草稿①
mixiより転載
「意志について①」2011年04月29日
「意志について②」2011年04月29日
「意志について③」2011年04月30日
「意志について④」2011年04月30日
「意志について⑤」2011年04月30日

私は自由意志というものを考えた時、個人というものに視点を動かさずにおれない。私自身とか、全く個別的な一人の人間に目を向けること。意志する一人の人間について考えること。そういった視点に立ちつづけることがある意味でスピノザショーペンハウアーとの分かれ目なのかもしれない。

目次

 

 

「意志」の「存在」

 

意志というものが存在するかどうかという有無の判定というのがどういった形式にあるのかを吟味することに、なんらかの意義を見いだそうと考える人というのは想像できる。

 

「意志」を考察する上で考慮する必要があると思われる言語の構造

 

そのためには、まず私たちがどういった機制に対して意志と見做すのか考えなければならない。まず、意志について考える場合、シニフィエシニフィアンの別を明確にする必要があるだろう。

 

それが言語によって表現されるものを取り扱う場合に、まずわれわれがしなければならないことであると思われる。

 

「意志」という用語の対象

 

「意志」という単語が示そうとする対象がどういったものであるのかを表現することについて考えなければならない。

 

これは私が何度も繰り返している前提であるが、まずこの示そうとする行為に対して、言語を用いて示そうとした場合、まず「像」として限定的に示されていない、浮遊した単語を用いなければならないという制約が付き纏う。

 

この制約故にわれわれが付き合わなければならない煩わしさを言語表現を行う者は必ず引き受けなければならない。

 

もしその煩わしさを拒みたいと考えた場合、われわれは実際、その「像」に類似した「像」を提示することができる。要するに視覚的な像を中心として、単語で示したい「像」を直接ダイレクトに提示することは可能なのである。

 

ただ、ここにおいては言語を用いるがゆえの制約に縛られる言語表現にとどめることにする。その種の煩わしさを受け入れないために、われわれは別種の煩わしさを被らなければならないという点が恐らくあろう。

 

「意志」という用語の対象にあらざるものの考察

 

まず「意志」が何でないのか?を単純に示すことはできるだろう。単純にいってわれわれが「鉄」とか「林檎」などという時に抱く印象の「像」と「意志」はかなり異なるものと考えるのが普通である。

 

「意志」は一般的な意味で物質名詞ではない。これは「意志」が、われわれが認識するところの「物質」となんら関わりがないという意味ではない。

 

「意志」は、われわれが認識する所の物質とは無関係ではありえない。しかしながら、一般的な使用として物質名詞ではないというのは言えよう。また「意志」は固有名詞でもない。

 

このような極めて当たり前な指摘を行うことに意味はないようにも思うが、それでもそのように名詞における差別化というのはされているというのは前提として示唆する必要は感じる。

 

「意志」と「物質」の関係性

 

私は意志は物質とは無関係とは言えないと言った。このような表現を用いることによって私は唯物論者と見做されるかもしれない。しかしながら、私はある意味においては実際に唯物論者であると思っている。

 

一般的な唯物論に対する理解がどのようなものであるのか私には解らない。また自分の唯物論的な価値観がどのようなものであるのかはここで説明を試みようという気もない。

 

「意志」の物質論的な考察について

 

また私は十全に意志についての物質論的な位置づけを行う事もできないとしなければならないだろう。それは同時に生理学的に意志のあり方を指摘できないということでもある。ただ、しかしながら、私は肉体から全く遊離した精神、言い換えると魂というものを信じていない。

 

非科学的な前提に基づく考え方、たとえば幽霊の存在を信じているかのような見識に基づく精神に対する考え方や魂についての考え方には合意できない。

 

またそのような考え方に子供の頃のように、再び信じるようなことは今度も絶対にないと私は確信している。

 

従って、意志については肉体と精神を全く切り離してしまっているような前提に立って論理を構築するような真似は私にはしようがないということは言わなければならない。

 

そのような前提を切り捨てて論理を構築する事に対して、私は全く罪悪感など感じようがない。ただし、これは先ほどの繰り返しになるが、物質論的な説明とて必ずしも十全ではありえないと私が考えているというのも同時に指摘しないわけにはいかないのだということは言わなければならない。

 

 

「自由意志」否定の観点

 

意志について、哲学的な考察が始まったと考えられているのはどうやらアウグスティヌスからのようだ。中世哲学においてはドゥンス・スコトゥストマス・アクィナス、さらにスピノザショーペンハウアーそしてニーチェに至るまで「意志」は考察の主題に幾度となく上がってきた。

 

しかしながら、その意志についての見解は、否定派を除けば、意志の所在が曖昧であると見做されて当然である。

 

われわれにとって、存在や物質、観念などと較べて、われわれが「意志」と見做す対象は遥かに捉えどころがないのである。

 

そして「意志」はわれわれの最も身近な所にあると感じ続けられながら、それでも「意志」の所在は常に不在を余儀なくされたと言ってもよいかもしれない。

 

それは「意志」がなかったという意味ではなく、「意志」の所在を見いだせなかったということである。従って、自由意志を否定するスピノザにこそ、ある種の明瞭さを見出しやすいようにも考えられる。しかし、われわれはずっと「意志」を身近に感じていると推測する。

 

「意志」についての哲学は、これからも最も身近に感じられながらも、最も厄介なものであり続けることだろう。そして、今までと同様に、見向きもされないにも関わらず、「意志」という観念は多用され続け、不誠実に使用され続けることだろう。

 

そして、その事に対して苛立ちを感じようと恐らく何の意味もないだろう。

 

ただし、漠然とした印象としての「意志」というものを考えた場合、この「意志」は何と関わってくるだろうか?「意志」は何ものとも関わりがないだろうか?

 

いいや、「意志」はわれわれが認知するすべての事柄、われわれが関わりあるすべての事柄と関係する。

 

「意志」を考察する上で考慮する必要があると思われる思考の構造

 

さて、「意志」を語る上で、私が提示したい主題がある。それは以前にある程度提示したことなので、過去の日記を引用しつつ表現を試みようと思う。その主題というのは偶然と必然についての考察である。

 

 

偶然や必然について、以前に私が挙げた見解を再びここで説明しようと思う。

 

「偶然」とは起こったこと以外の現象を頭で想像できる能力があるが故に出来た観念であり、「必然」とはその否定で、その想像は想像にすぎないという視点から生れ得た観念という非常に単純な前提である。

 

人は、時の流れの中で、様々な刺激を感官などから感受する。目で見て、耳で聞いて、鼻で香り、舌で味わい、肌で感じる。

 

感覚器官に限らず、人は様々な刺激を感じることで、あるいは今という瞬間におけるクオリアの総体的な感覚から今を生きているのである。そして、そういった感覚や感覚器官からの刺激を受けて内側から像を適合させるなどする。

 

感覚器官だけにとどまらず、人は口から発せられる言語とは異なる思弁における言語などもその内外の刺激から受けて展開される。

 

様々な感覚が、今現在のわれわれ自身の生の中において、肉体の内部において展開されている。その肉体的な活動を主眼において、私は「一つの生」と定義したり、あるいは公理としたり、定理とするつもりはない。

 

「偶然」と「必然」の観念の話に戻すが、人が偶然とか必然とか感じたりするのは、さらに言えばそのような観念が存在するにいたらなければならなかった原因というのは、人には「推測」する能力というものが存在するためであると思う。

 

推測、推理、推量、予期、予測、憶測などと言う言葉が存在するが、人は過去に起こった出来事であれ、現在起こっている出来事であれ、これから起こるであろう出来事であれ、基本的に「一つの生」の中で、実際に起こったこと、実際に起こっていること、あるいは実際に起こるであろうことを推測したり、推理したり、予期したり、予言したりするのである。われわれは知っているのではない。

 

われわれはこのように常に推量する状態にある。

 

「推測」する存在者

 

われわれは推量の世界にいるのだ。そしてこの推量するが故に、あるいはその推量しているという自覚故に、「偶然」や「必然」という観念が生まれえたと私は思っている。

 

そしてわれわれは何かにつけて、「偶然に起こった」とか「必然に起こった」などと言うのである。そして私が思うに、その偶然か必然かという判断は、その感じ方、印象がそう判断させるためにどちらに傾いたかという事に過ぎないと考える。

 

あるいは、予め、物事はすべて必然のうちにあると考えているか、そうではないと考えているかの印象の程度にもよると考える。

 

そして自由意志を否定することとは、必然性を絶対視することである。すべては起こるべくして起こっている。このような考え方から自由意志は否定されるからである。

 

このようなパースペクティヴが自由意志否定のパースペクティヴなのである。このパースペクティヴをいち早く、確信を持って示したのがスピノザであったということなのだろう。

 

 

風景と境界

 

自由意志のパースペクティヴ――スピノザが神の概念を持ってやったこと、それは私が考えるところでは境界線設定の破棄にある。われわれが言語活動などを通じて行っていることの多くの背後にはこの境界線設定が関わってくる。

 

この境界線設定論も以前に幾度かやっている。ここで問題となるのは、私という境界線設定と私を取り巻く環境の境界線設定と、スピノザ的な神の境界線設定である。

 

スピノザが行った事は、神という概念を創造主から神即自然にしたことである。この事によって私と私を取り巻く環境、さらに神とにおける境界線の設定がある論理の像として境界線が取り払われるのである。

 

そのことが正しいかどうかというのは実質的には何の意味もないことかもしれない。この境界線が取り除かれたという事実が最も大きな事であると思う。この考えは多神教にも近い所があるかもしれないが、根本的に異なる所はある。

 

風景と境界の中における「意志」の探究

 

逆にいえば自由意志肯定のパースペクティヴとは境界線を取り除こうとしないパースペクティヴと考えていいかもしれない。

 

そこには私がいて、私を取り囲む環境がある。その境界線の設定に成功していないと考えるにしても、その境界線が言語活動故に取り外される事はない。

 

自由意志肯定派は基本的にこの境界線設定に成功していない。いいや、成功することなど考えられないといってもいい。しかし、忘れるべきではないこととして、ある意味で言語における境界線設定に成功しないにしても、境界は存在する。

 

私とは何か?という問いから導き出される境界線が如何に曖昧であれ、われわれは自分の体を眺めた場合、そこに境界線が存在しているのは明確である。自分の肉体と肉体ではない空気が漂う空間は明らかに違う。関係があるにしても異なる。

 

「私とは私とその環境である。」と述べたオルテガスピノザのように自由意志を否定しなかった。どちらが正しいかということはここではどうでもいい。ここで問題としたいのは、その差異を明確にすることであり、私が行いたいことは種々に存在するパースペクティヴの根源である観察者の思い描いた風景の視点を見出すことである。

 

「自由意志」と「自由意志の否定」の対立要素(外的な意志)

 

私は自由意志というものを考えた時、個人というものに視点を動かさずにおれない。私自身とか、全く個別的な一人の人間に目を向けること。意志する一人の人間について考えること。そういった視点に立ちつづけることがある意味でスピノザショーペンハウアーとの分かれ目なのかもしれない。これについてはニーチェをどのように見るかは判断が難しいだろう。

 

 

生誕によって、生き、やがて死んでいくのが人間である。己の意志で、己の決断で生まれてきたわけではない。

 

どんなに何故?と問いかけても、己の生に意味を問いかけても、それは十全なる解答になることなどない。解答を見いだそうとすることによって、人は安心したいのかどうか解らないが、このただ一つの自分自身の生を人は生きていく。

 

そこには家族がいたり、友人がいたり、恋人がいたり、同僚がいたりと、その生における瞬間に、様々な人々と出会う。

 

われわれにとって、人あるいは社会だけが環境ではない。われわれを取り囲む日常的な風景、移りゆく風景、そういったものを含めて環境であるのだと断言するわけにもいかない。

 

先ほども述べたように自己の環境とは何か?という問いも明確に記述することができない。それが自己の生で体験することであろう。自己に対する謎、およびその自己を取り巻く環境への謎、解き明かされることのないこの謎だらけの世界、不可思議な世界において自己は生きていくのである。

 

そういった自己の生において、考え、決断し、行動する自己をわれわれは自ら発見することができる。これがある意味で「意志」の漠然とした印象のうちに見いだしえる風景であろう。

 

このような単純な風景は、恐らく「必然的な生」の発見に先立つ風景であると思われる。それは「思い描くこと」ができ、「推測」し、「仮定」する人体のメカニズムに起因するように思う。

 

つまりわれわれは「もし~であれば」という世界観を常に持ちえる自己であるのだ。正直、仮説する存在という枠を超えて空想する存在であると言った方がより正確だろうと思う。この空想的な世界は、幻想的なあるいは幻影的な世界と表現してもよいかもしれない。

 

われわれはこの幻想的な世界観の中から、自分の意志を観察しえる。必然的な生に否定を突きつけられるまでは、そういったものが意志なのだと私は思う。

 

われわれは単にこの「必然的な生」と「意志」の矛盾に立ち止まるべきだろうか?それともこの矛盾を解消することを試みるべきなのだろうか?

 

「意志」の哲学的考察の実際的な困難さ

 

いうなれば、「べき」論では進まない。この疑問に対して多くの人々が立ち止まるのに対して、立ち止まらない人間、あるいは矛盾を解消できるのではないかという淡い期待をもって試みる人間、非常に少数であろうが、そういったことを試みる人間が存在しつづけるということなのだろうと思う。

 

それは極めて稀な活動と言わざるを得ない。こういった活動は一般的な経済活動から排除されることは必定である。