日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学006】思考を記述するということ

my日本からの転載
2011年05月02日
思考の記述について
mixiからの転載
2011年05月02日

自己の思考を他者において思い描かせることは極めて困難であり、記述つまり言語のみを用いてそれを達成し切るのは不可能であると言いきってもよいと思う。

目次

 

 

 

思考を記述するということ


哲学的な記述、あるいは社会に対する評論について考えるにあたり、次のことを考えたい。


われわれが現に考えていることを表明し切ること、言い換えると、われわれが現に思い描いているイメージ、像を他者に何の狂いもなく思い描かせることは極めて困難である。


哲学的な事柄、あるいは社会についての事柄、われわれは様々なことに問題意識を持ち、そしてそのことについての意見を提出しようと試みる。

 

先にも述べたように自己の思考を他者において思い描かせることは極めて困難であり、記述つまり言語のみを用いてそれを達成し切るのは不可能であると言いきってもよいと思う。


自己が記述しているときに行われている様々な事柄


表明にあたり、人は思考しながら、つまり思い描きながら、同時に記述を試みる。推敲する場合は、同時並行的に修正を加えたり、あるいは時間をおいてから修正を加えたりするだろう。


自己が意図する以上の用法や使用を具えた用語および文法


われわれが用いる用語あるいは文法は、われわれがその時に使用した以上の形式を有している。


自己が重視する焦点(フォーカスしていること)と全体性


われわれはまた焦点を持っている。つまりその焦点に意識が行き過ぎて、全体像が見えなくなっている状態を示すものである。仮に焦点をずらしてあるいは視点をずらして全体像の幾ばくかを捉えようとした時、われわれは現に注視したかった像から意識が遠ざかる。


自己の記述の非自己化


時間が立つにつれて、人は自分が書いた文章にさえ煩わしさを覚えうる。


本来、用語あるいは文法が有している使用形式から、自分が用いた形式を探し出さなければならず、また記述時の焦点以外の構造が全く記述されていないがために、しばしば困惑する。


記述における自己喪失


そしてこう嘆くかもしれない。私はこの時何も解っていなかったのではないか?と。
記述によってこのズレを克服することは難しい。


現代社会における評論に対する小説の優位性


現代において小説が哲学に優って活動の場を獲得している要素として、小説にはこの種の困難さに向き合わなくてよい点があげられるだろう。つまり、作品として解釈者の解釈に委ねればそれでよいのである。一つの作品としてそこで完結するのであり、探求を前提としていない。


これは哲学にしろ、宗教にしろ、突きつけられた衰退の根拠にあげられるかもしれない。


宗教が本来行わなければならない探求の困難さ、あるいは記述、説法の困難さによって、近年、その探求を目指さない新種の宗教、占いやスピリチュアルな活動など、極めて直観的な、根拠のない、如何わしい活動とその活動家に活躍の場を明け渡した。


われわれはいよいよ思いつきの、短絡的な、見栄えの良いものに精神を明け渡す道を歩まなければならない。


そしてそうすることによって、われわれは両手をあげて衰退を迎え入れることだろう。この衰退の道から抜け出すこと、これは極めて困難であると私は考えている。


私がこのようなことを述べているからといって悲観主義者であるとは考えて欲しくない。これは単に現状に対する考察の結果であるに過ぎないからである。


これは近年日本における精神的な活動における怠惰に起因していると見做してよいと思う。そして未だにこの怠惰から抜け出す兆しが見られない以上、われわれは様々な価値観に敵対しなければならないと考えている。


思考および記述と向き合うべきものたち


そしてこうも言える。この様々な価値観に対する敵対という行為は、一般的な社会人に支持されることはまずない。

 

自らに多忙を要請し、その要請に疑いを示すことのない人々からこれを期待することはできない。また子供や老人においても期待できない。また女子に対してこれを要請することは酷である。


繰り返すが極めて困難なことである。