【断片004】正誤問題を考察する上での心情的な独白
my日本からの転載
2011年05月04日
告白
mixiからの転載
2011年05月04日
告白(閲覧厳禁)
正誤という考え方が全くの不全なもののように思えてならず、そしてそこから逃走しようとすればするほどにどんどんそれは近づき、逆にこちらから近づこうとすればするほどにどんどん遠のいていくように感じてしまい空恐ろしい。
目次
正誤問題を考察する上での心情的な独白
正誤の前に茫然と立ちつくしている自分を発見している。
考えれば考えるほどに、正誤という考え方が全くの不全なもののように思えてならず、そしてそこから逃走しようとすればするほどにどんどんそれは近づき、逆にこちらから近づこうとすればするほどにどんどん遠のいていくように感じてしまい空恐ろしい。
そしてそう感じながら、日常生活においてそんなことを全く考えていないようなフリをして積極的に正誤判定をして生きていることもまた空恐ろしい。
例えば、 私は本当にこう考えているのか?と問う。
そしてこの問いに答えるにあたり「正誤」という判定を遠ざけるための説明を行うのだが、その説明を行うために用いる道具それ自体がそれ自体の「正誤判定」を携えてくるという感じである。
逆に、「正誤」それ自体が何であるのかということを積極的に問いかける場合。その説明を行っている対象がどんどん「正誤判定」ではない別のものに対する判定になっていく。
ここで私は「正誤」なんか解らないと言わざるを得なくなるが、「正誤」というものを扱う資格がないと宣言しても、私はその理解していない「正誤」の判定を行わないという立場には立てない。私は常に正誤判定を実行することを要求されつづける。
禅問答のようでもあるが、常に誤魔化しつつ生きている自分を棚に上げて、他人を批判して生きていく自分を常に目の当たりにするにあたり、心苦しくなる。
そしてまたこう自分に告げるんだ。
そんなことはないと。
補足的な戯言
日本が遠ざかったのは(特に教育界で顕著であったと思うが)、こういった仏教的な視野、仏教徒が凝視しつづけたこういった世界観ではないだろうか?
こういった観点から遠ざかろうとすればするほどに、あのユダヤ的な、キリスト教的な世界観が近づいてくる。
彼らが少しずつ仏教的な世界観に近づきつつあるのに反して。
なんか熱力学みたいだが 笑