日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【社会001】宿命的大衆社会

my日本からの転載
2011年03月01日
高度大衆社会
mixiからの転載
2011年02月28日

 われわれの世代に課された事とは、好むと好まざるとに関わらず、大衆であり続けることであり、どんなに強い意志とどんなに強い信念を持ち続けたとしても、貴方が大衆であるということは執拗に貴方に付きまとうだろう。

目次

 

 

大衆批判の原点


科学技術が進歩し、文明が高度に発達していく中で、人間社会は高度に大衆化している。近代以降、ニーチェオルテガに限らず、キルケゴールさえも大衆のありようを暴露し、痛烈に批判したが、しかしながらついに反大衆論、大衆社会に対する処方箋や対策は現在に至るまで聞こえてこない。


それはそうだ。現代人として生まれた人間の中に大衆の定義から逃れられる人間が一体どこにいるというのだろうか。われわれが実際にどんなに大衆を批判しようとも半面的に大衆社会を歓迎しているのだ。われわれの時代は大衆社会を宿命づけられている。


高度に発達した音響や映像に囲まれ、恐ろしいほどに整った文字、恐ろしいほどに綺麗な画質に囲まれて大衆足りえないなどということはまずない。家の隅々まで、野外の隅々までもがわれら大衆のために整然と用意されているのである。

 

大都市になればなるほどにそうである。今後も大衆批判は虚しく静かに響いていくことだろう。しかし一体誰がその声に耳を貸すだろうか。異常なまでに心地よいこの大衆のために用意された快適極まるこの世界に、大衆批判は今後も虚しく存在するだけだろう。


大衆社会は破滅へ向かう序章なのか?素晴らしい未来への一ページなのか?


この大衆社会が破滅への序曲であると断言することはできない。われわれは未来を知らない。従ってこの素晴らしき世界に批判することに誰も耳を貸すはずがない。しかしながら同時に、この大衆社会はより文明的な社会なのだと言われているが、そんなことは誰も断言しえないということをわれわれは断じて忘れてはならない。


大衆であることの不可避性


われわれに、われわれの世代に課された事とは、好むと好まざるとに関わらず、大衆であり続けることであり、どんなに強い意志とどんなに強い信念を持ち続けたとしても、貴方が大衆であるということは執拗に貴方に付きまとうだろう。


この大衆社会に対して貴方がどんなにおぞましいと感じようが、どんなに逃れたいと感じようが、どんなに変えなければならないと考えようが、貴方が大衆であるという事実は深く貴方に染みついていて、これからもずっと拭い去ることはできないだろう。


現に質問するが、貴方が誰にも告白できない知的好奇心に対して、貴方に積極的に情報を提供してくれる大衆的な装置を思いかえして見てほしい。貴方がもしそのことに苛立ったとしても彼ら装置の方には心などないのだ。


そのことを忘れないでほしい。


大衆批判が自己批判と重なる現代


貴方が烏合の衆に対して浴びせかける罵声は、そのまま烏合の衆に過ぎない貴方に帰ってくる。これこそが現代であり、現代の恐るべき事実であろうと私は感じる。もしそうならば、われわれにすべきことはないのだろうか。私はそうは思わない。


しかしながら非常に微力な非常に軟弱なもので終わるだろう。その事は覚悟すべきだろう。