日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【断片002】泡沫の唄2

2010年09月05日
独り言-4.00
my日本からの転載
mixiからの転載

 

人は「生誕」によって「遊び」場に放り込まれる。

 

 



人は「生誕」によって「遊び」場に放り込まれる。あなたがしていること、それがつまり「遊び」ということです。


決して皮肉の意味合いを込めているわけではありません。こう弁解している時点で、信用し難い物言いだが…



私が発言する正しさは、必ずどこか別の自分の主張する所の正しさと矛盾する。私自身にあってでさえ、そうなのだから、他者と折り合いがつかない場面が必ず訪れるというのは考えるに難しくない。

 

しかし、そういいながらも、現にその他者との(他者のその時々に発言する正しさとの)葛藤に、否応もなく苛立たずにはおれない。

 

ちなみにこの種の前提が会話において提出されることは極めて稀である。なぜなら、この種の前提が会話の主題になど上りえようはずがないからである。

 

発言者というのは、致命的にこの種の問題を抱えているというのもまた一つの前提として考えうるだろう。われわれは絶えずこの問題に苛立つべきだろうか?


敢えて言えば、人がこの問題に苛立とうが苛立つまいが私にはどうでもいい。私にはこの種の問題を解決する能力など全く持ち合わせていないのだから。



私が批判している相手というのは実はあなたです。そう、あなたです。



思考過程において、われわれは何度も、その命題の前提となる条件や原理と呼ばれるものを思い返す。そうでなければ、その命題は提示されえない。しかし、対話など、言論上は絶えずその主題としての命題がとり立たされ、その思考過程における前提的命題、原理的な命題は切り捨てられる。

 

言論は前提的命題さらにはその前提的命題の前提となるだろう命題などを時折煩わしいが提示する必要があるのかもしれない。言論にはそういった煩わしさがある。


哲学などは主題の前提的命題などの話に終始し、全く内容がないような議論が展開されているが、それはその前提的命題を議論しながらも、絶えずさまざまな経験的な命題を思いめぐらしながら話が展開されているのであって、全く無意味な議論だと論難することはできないだろう。



助動詞の「を」と「に」、「へ」と動詞の関係性は、動詞によって導き出される。


私はあなた「に」手紙「を」送る
私はあなた「を」説得する


ここではどちらもあなたに何かするのだが、助動詞が異なる。上の文章の場合は手紙が目的語となるが、下の文章ではあなたが目的語になる。


「で」に限っては、これらの関係性の複雑さからは切り離せる。


英語の場合、しばしば「に」にあたる言葉が省略されて目的語になる場合があるが、実際はforかtoが省略されるが、省略する代わりに文法構造が変化する。

 

日本語の場合はこのような要請はない。


上の二つの文章を英語を苦手とする人(たとえば私など)は少々この動詞と目的語の関係性に戸惑う。



人は
A ならば B である。
と平気でいう。


なぜ そう断言できるのだ?!


A ならば B である と果たしていえるだろうか?


すべての命題に対してこういった疑念は沸き起こりえる。



国家というものは、いかなる国家であろうとも恐らくは途轍もない賠償金を請求されるような行為をなしている存在であろう。

 

国家は法律を利用し、いつだってある意味での悪事を働いているものだ。そうといっても、私はことさら国家を貶めるような発言はしたくない。かといって、ことさら擁護するつもりもないが。



私は一体なにを敵に回したいというのだ。私は敵を捏造して、自分を糾弾したいのか。それとも自己正当化したいのか。つまるところ、私は敵を捏造することによって何らかの快感を得ようとしているに過ぎないのではないか。



それでも私は、私の明日のために、あなたの明日のために、言いたいことを躊躇する。どの道分かり合えないのさ。だから、いがみ合わないで、とりあえずやり過ごす。ただ、明日の朝のために。ただ、その私の躊躇いによる言動が、必ずしも明日の朝のためになったとは言い難い。


私は気の利いた人間では断じてないようだから。


また、それとは半面に、心の奥底ではこの忌まわしい「明日のため」を呪っているかもしれない。


明日の朝のことなどどうでもいいのだと。



あらゆる質問に対して、「よく解らない」、「うまく表現できない」といった解答が最も適切に思えてならない。もし、私がそれ以外の解答を導こうとするならば、「よく解らない」、「うまく表現できない」といった解答に及ばない解答といわざるをえないのではないか。



相手を屈服させたいことに、あなたが道義的に正しい必要など無い。ただ、屈服させるためだけに、城門を抉じ開け、城に突入し、相手をひざまずかせ、相手に一切の反抗の力と反抗の気力を削ぐだけで十分である。道義的に正しいということは、あなたには何も与えない。


あなたが道義的な正しさを要請し、その上さらに相手を屈服させようというならば、私は尚更にこの見解を引っ込めるつもりはない。


周りは単にあなたを屈服させようと淡々と構えている。あなたと同じように道義的な正しさを楯にとってだ。あなたはどの道、その相手を正しいとは思っていないのでしょう。相手だって同じさ。



私は貴方にどれほど貴方の関心事について説明されても、一向に貴方の本心がわからない。いいや、そもそもある意味で本心というものは存在していないとさえも思う。一向に貴方の考えが解らない。

 

恐らく、私が貴方に対してその事柄に対する返答をどんなにしても、私が貴方について解らないのと同じように、貴方もきっと解らないのだろう。
われわれはそういった世界で生きている。


私がこういった世界を前にして「怖れるな」といった場合、何を根拠に、何を目的としているのだろうか。


明確な根拠は導き出せない。また明確な目的も導き出せない。私の要請する「怖れるな」という言葉は、恐らく何事かを怖れて発せられている。それともあれか、私は漠然とした恐怖心から「怖れるな」というのだろうか。恐らくはそうなのだろう。



自己欺瞞によって単に生き延びている制度はそれでも死に行くのではないか。


いっそ殺した方がいいのではないか。


われわれがその後に築こうとしている制度も間違いなく欺瞞だらけなのだろう。


それでもわれわれはこの制度を殺した方がいいのだろうか。



箴言は絶対に論理的なものではない。しかしそれに負けず劣らず散文もまた十分な論理とは言い難い。むしろ、箴言は論理性に欠ける事を告白している分、より人間的である。



法は絶えず正しいことを前提として立てられるが、むしろ反対に法は絶えず間違っているという前提から立てられて然るべきものではないか。
何故、このようなことを誰もいわないのだろうか。



あなたが取るに足りないと思うことをあなたは論じる必要があるのではないか。あなたがその取るに足りないことを論じていないが故に、あなたが真に論じたいことまでもが取るに足りないことに聞こえる。



われわれは時間を空間的に置き換えることによって、言い換えると時間的現象が視覚的現象(たとえば時計など)に置き換えられることによって時間を把握する。

 

しかしながら、その置き換えられたもの自体を真に時間とは言い難い。

 

われわれは時間を置換することによって、われわれの時間の直感的な感覚に鈍感になっているかもしれない。



われわれの錯覚を暴露するという行為は、いうなれば、新しい錯覚をもってわれわれのその錯覚を見つめなおすといった程度の行為かもしれない。


他に方法があるのか?わたしには全く見つけ出せない。



生まれてやがて死んでいく。私が死んだとしてもまた新しい命がどこかで誕生している。


私が出会った障壁に、必ずぶつかる人間がいることだろう。この障壁は消失することはない。絶えず、繰り返し言及されることなのだろう。


われわれは自分の力で、他の誰でもないあなた自身の力でその壁を乗り越えなければならない。仮に私が乗り越えたとしても、あなたの助けになることなどほとんど無いだろう。



不思議な体験をしたなどといった表現がよくなされるが、そもそも不思議じゃない体験などあるのだろうか。われわれはある法則と見做す因果性に乗った出来事を不思議ではないことと思うかもしれない。しかし、何故そのことが不思議なことではないというのか、不思議である。


目の前に林檎がある。林檎の匂いがする。その林檎に噛り付けば、林檎の味がする。
これのどこが不思議ではないのか?


他人の家で幽霊を見たなどということよりもよほどに不思議ではないか?



私が自分の言う事を総じて戯言というのは、確かに相手の感情に配慮しているといった打算的な部分もあるかもしれないが、凡そ本気で戯言だと思っている。私の言っている事柄はその発生と共に破綻している。



神の復

活祭――神の復活祭には如何なる参列者も存在しない。存在してはならない。誰も宣言しないこの復活祭には誰も訪れることができない。

 

われわれはこの復活祭をどのように祭ればいいのかが解らない。しかして、この待望の復活祭は、われわれが神の座から降りる唯一無二のお祭りなのだ。

 

さあ、この復活祭から「神」の名を伏せよう。また宗教の名も伏せよう。全くといって良いほどの清閑なこの復活祭には、繰り返すが参列者はいてはならないのだ。


復活祭は、遠く離れた所から数えるほどの人が眺めているという具合に違いない。



建設的な論理を構築しようとする試み自体が、そうすることによってさまざまな論理的構造要因を看過し、破滅させているのだということでもありえる、といった議論はなかなか起こり難い。



私は「究極的」に「真実」とは表現できないもの、解釈できないものの部類に入ると考えている。もう少し付け加えて言えば、「真実」という言葉が表現するところの「意味」に、そういった解釈が可能である論理が盛り込まれうるのだと考えている。

 

抽象言語ゆえに確たる「意味」を指示しがたく、諸個人間において意味合いの差異があって当然であると考えうるが、あくまでも私個人の言語使用では、こういった前提の上で使用されている。

 

こういった観点に立てば、


 Aは「真実」である。


という表現は、私の中では「究極的」には使用されるべき文章ではない、ということにもなる。

 

ただ、一般的に言っても言語表現というものは、常に「完璧」とは言えないものであるがゆえに、一般的に、


 Aは「真実」である。


という表現に対して、目を瞑るというのもまた、私の一般的行動でもある。