【思想・哲学003】真理と二義性
my日本からの転載
2011年01月02日
真理とは何か
mixiからの転載
2010年12月31日
そもそも人間の真理とは究極のところ何なのだろうか?――それは人間の論駁不可能な錯覚である。
ニーチェ『悦ばしき知識』 第三書 265
目次
ジョージ・オーウェルの二重思考
次の言葉をご存じだろうか?
戦争は平和なり
自由は隷従なり
無知は力なり
これはイギリスの作家ジョージ・オーウェルの『一九八四年』という小説の中にでてくる言葉である。
1949年に発表されたこの著作の中で出てくるこの言葉は、ビッグ・ブラザーが率いる党が支配する全体主義的近未来である1984年に打ち立てられていた三つのスローガンである。
この時代にはニュー・スピークという英語を合理化したような言葉が公用語とされている。ここで紹介した三つのスローガンはニュー・スピークにおいては「二重思考」とされるものである。
二重思考とは、ふたつの相矛盾する信念を心に同時に抱き、その両方を受け入れるという能力をいう。
党の知識人のメンバーは、自分の記憶をどちらの方向に改変しなければならないかを知っている。
従って、自分が現実を誤魔化していることもわかったいる。
しかし二重思考の行使によって、彼はまた、現実は侵されていないと自らを納得させるものである。
この過程は意識されていなければならない。さもないと、十分な正確さでもって実行されないだろう。
しかしまた同時に、それは意識されないようにしなければならない。
でなければ、虚偽を行ったという感情が起こり、それゆえ罪の意識がもたらされるだろう。
二重思考とはイングソックのまさしく核心である。
ここでいうイングソックIngsocというのはイギリス社会主義English Socialismのニュー・スピークでの言葉である。ジョージ・オーウェルのニュー・スピークについては実際に著作に当たってもらいたい。
二重思考に関連させて撞着語法oxymoronというものを考えてみたい。撞着語法の例として次のようなものがある。
公然の秘密an open secret、故意の誤りdeliberate mistake、白痴の天才idiot savant、生き地獄living deathなどがある。こういった表現は日常的にもしばし用いられ、撞着語法は表現として深みをもったものが多い。
個人的にはイギリスの桂冠詩人アルフレッド・テニスンの『モード』において使用されていた撞着語法の美しさに魅了された覚えがある。
ハイデガーのニーチェ批判
手短めにだが、矛盾する用語が共時的に使用されている表現を紹介してみた。私がここで主題としたいのはいわゆる撞着的な表現の一つである。
それはこの日記の初めに記した表現、真理と誤謬についての関係性についてである。ここで取り上げたい「人間の真理とは究極のところ人間の論駁不可能な錯覚である」という命題は、私が普通に生活している中ではあまり言われていない表現である。
これは日常的な会話の中にあっても、いわゆる古典と言われているものからも見出すのは難しい。ニーチェのこれに類する表現に対するハイデガーの批判には私は頷けない。
「複数の≪真理≫Wahrheitenという言い方は成り立たない」という表現は単にハイデガー固有のものでなく、ヨーロッパ圏では広く普及している考えであろう。それに加えてハイデガーは次のように言う。
真なる命題たるすべての命題について、それは真である、と言明することができるのであるから、省略的な思惟と語法では、真なるものdas Wahreそのものがひとつの真理eine Wahrheitとよばれ、しかもこの言葉が或る真なるものein Wahresを指している、ということになる。
こうして真なるものが単純に真理とよばれることになるのである。
≪真理≫という名前は、本質的な意味で二義的なのである。
真理という名前は、ただひとつの本質を指すとともに、その本質をみたす多くのものを指している。
言語そのものに、この二義性への独特の傾向がそなわっている。
そうした上で「真なるものを指すとき、われわれが真理の本質をも合わせて理解しているのは、言うまでもない。」とハイデガーは言い切る。
これはハイデガーに限る考え方ではなく、広く理解されている考え方だろうと思うが、私はこの考え方には合意できない。
私が言いたいことは簡単である。ハイデガーが主張する≪真理≫の二義的使用について、われわれはわれわれの期待に反して絶対的に個別的な真なる命題およびその複合状態にしか≪真理≫とは指しえないと言いたいのだ。
私はニーチェが全く二義性の間に揺れていなかったとは思わない。しかし、表現の中にはっきりと二義性を否定するかのような表現は見てとれる。
ドイツ哲学と英米分析哲学が別つ袂
この種の考え方を引き継いだのは、ドイツ哲学ではなく英米分析哲学であると私は思う。ニーチェが「哲学的種族ではない」と言い放ったイギリスにおいて哲学は確かに発達していった。
少しニーチェのイギリスに対する批判を見てみよう。
イギリス人は、ドイツ人よりも陰鬱で、官能的で、意志が強く、野蛮であり、――だからこそドイツ人よりも卑俗であり、敬虔なのである。
イギリス人はドイツ人よりもキリスト教をさらに必要としているのである。
鋭い嗅覚があれば、イギリスのキリスト教というものには、憂鬱とアルコール中毒の臭い、すなわちまったくイギリス的な臭いがつきまとっていることを嗅ぎ分けるだろう。
そのために治療薬としてキリスト教が服用されるのは、十分に根拠があることだ。
イギリスからはニーチェのようなタイプの哲学的な天才は生まれなかったが、ヴィトゲンシュタインやカール・ポパーなど外国人をイギリス人らしい形で受け入れながら、そのイギリス人らしい敬虔さも手伝って英米分析哲学を発達させたという点は興味深いと私は思う。
ここで日本を引き合いに出すのは少し気が引けるが、ほとんどキリスト教を必要としなかったこの国にあって哲学的な思考が全く発達しなかったのは不思議な感じもする。
私ははっきりと言うが日本にはそれでも哲学が大いに発達する土壌はあると思う。しかしながらわれわれには服用する薬がない。
つまりある意味でイギリス人的な卑俗さが、敬虔さが、陰鬱さが、官能が、意志の強さが、野蛮さが乏しいと言えるのかもしれない。それゆえに哲学は孤独の中に埋没しつづけることだろう。
ここからはこのイギリスやアメリカで発達した哲学と照らし合わせながらこの真理というものを辿っていきたいと思う。