日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【断片001】泡沫の唄

2010年08月06日
独り言-1.01
my日本からの転載
mixiからの転載

 

われわれは未来より過去について詳しいかもしれない。しかし、われわれはこうも言えないだろうか。われわれにとって過去も未来と同程度に未知であると。

 

 


Heart Sutra (Prajna Paramitha Hridaya Sutra) - lyrics Sanskrit and English

 

はじめに言っておきますが、こんなものを参考にしようなどとは一切考えないでほしい。ここに書かれている言葉は泡沫のように消え去るべきなのだから。

 

1 
理想とは、われわれが、本源的に孤独であるわれわれが、われわれ自身の納得によって作り出したものである。果たしてわれわれは十分に納得して理想を懐いただろうか。どちらにせよ、理想は常にわれわれの元にあり、常に限定的である。

2 
あなたが安心と安全のために何らかの確信を持ってつかんだものが根無し草ではないという保証はどこにもない。あなたにはそれを手放す覚悟があるだろうか。


詩的な表現を用いるときには、そこに書かれた言葉が様々に解釈されうることを考慮しなければならないだろう。言葉は、あなたが伝えたいこと以上のことを語り、更にあなたが伝えたいことを十分には語らない。

言い換えると、あなたの発した言葉はあなたから自立し、あなた自身もあなたの発した言葉から孤立している。


あなたが主張する種々の問題にたいする方針は、あなたの疑念や警戒を発露としていると言い切る自信があなたにはあるだろうか。

それは単にあなたの疑念や警戒とは無関係に、むしろあなた自身が地位や報酬を得んがための通り道において与えられてきたものの蓄積を発露にしているということをあなたは否定しきることができようか。


虚偽や狂気にいつまで従順に我慢しているつもりなんだい。知っているさ、あなた自身の虚偽や狂気をあなたは知っているんだね。でも、我慢にも限度があるんじゃないか。


哲学者のしてきた仕事、それは感覚器官を肉体から切り離すという蛮行ではなかろうか。彼らは雄弁に雄弁すぎる故に、様々なものを肉体から精神から切り離してきたのだ。彼らは彼らであるがゆえに言葉の陥穽に落ちないわけにはいかなかったのだ。


われわれは未来より過去について詳しいかもしれない。しかし、われわれはこうも言えないだろうか。われわれにとって過去も未来と同程度に未知であると。


世界が不純であるなどという批判ほど聞くに堪えないものもない。あなたがたは自らが認識しやすいように世界を純化したいというのだろうか。その頭蓋骨の中にある世界を、認識不能な広大な世界に強要するつもりなのだろうか。


あることを摑まえて馬鹿馬鹿しいと思うのはあなたがたの勝手だ。しかし、世に馬鹿馬鹿しい以外のことがあるだろうか?

10
そうか、あなたの言いたいことはそういうことなのか。わたしはあなたの言いたいことを十分に理解できていないかもしれないが、それでもよく解ったよ。しかしだ、よく考え直してごらん。そんなことはどうでもいいことなのかもしれない。

11
文学的なものであるならば、如何なるものも詩的なものである。小説であれ、評論であれ、学術書であれ、さらに哲学書であってもである。そしてそれらは詩のもつ特徴の重要な役割をそれぞれに忘れている。この忘却こそがそれらをそれらたらしめているのではある。そしてそうであるがゆえに、この忘却のために、その表現形態は不安をわれわれに感じさせもするのだとわたしは思う。わたしは文学的なものと言ったが、実際は文学的なもののみに留まるものでもないと確信している。

12
わたしたちがあなたに対して手を差し伸べなかったからと言って、何故立腹するのだろうか。わたしたちはあなたの進むべき道の向こう側にはいないとわたしは思う。そんな相手になぜあなたは腹を立てるのだろうか。そんなことをするよりも、あなたはあなた自身の手を掴むべきではないか。あなたに対して最も親身になって手を差し伸べてくれる可能性があるのは、他の誰でもなくあなた自身ではないか。そう、他の誰でもなくあなたこそが唯一何の見返りも求めずに手を差し伸べてくれる人ではないのか。だからこそ、あなたはそんなあなた自身を憎んではならないのだ。

13
わたしは、言葉をつづるわたしは、決してこんなことを伝えたかったわけではなかった。

14
世の中には、とんでもない石つぶしのどら息子というものがいる。しかし、恐らく彼らの中には、あなた方が全く気づきもしない、とんでもない構想を懐いている人が間違いなくいると私は思う。そして誰にも見いだされないが故に、彼らの多くは石つぶしのどら息子という人生で終わってしまう可能性がある。

そういった恐るべき逸材を見いだす能力は多数決という制度からは生み出されないだろう。われわれは完全に民主主義に魂を売り渡すべきではないと私が思う最大の理由はこれである。

彼らを見いだすためには、彼らを見いだす能力のある石つぶしのどら息子が必要なのだ。彼らとてまた恐るべき逸材なのであると私は思う。

15
大多数のものに納得してもらうために時間を費やしている間に、もはやすべきことの期限は過ぎてしまう。当然にそれは優れていない行為の可能性のほうが大きいものであったとは思うが、それでもそうではない可能性もあっただろう。

16
意見を異にする者よ。何を怖れることがある。汝の信じる道をそのまま進むのだ。わたしと言う異邦人など構わずに進め。わたしはずっと汝の敵であり続けよう。

17
あなたがたは詩人ではないのか?いつまで型にはまった詩を歌っているのだ。何某学という詩は聞き飽きた。

18
道化師が真理を語るだと?そんな話をわたしが信じるとでも思うのか?ならば言おう。そんなにもその道化師を信仰するならば、その道化師に権力や地位、財産を明け渡すことだ。その自信があるのなら、どうかそのまま続けて道化師を信じたまえ。

19
あなたはあなた自身が正しいとでも言いたいようだね。一体、何に対して正しいのかい?自分の築き上げた信念に対して正しいといっているのかな?あなたの矛盾だらけの論理の中の一つの断片に対して正しいのかな?まあいい。そのまま自分が正しいと信じて生きていけばいいさ。

20
遊びはわれわれにとってより手に負えないものであるほうが面白い。いつまでそんな退屈な遊びをしているつもりだい?あなたに言っているのではない。そこのあなたに言っているのだ。

21
ついにわたしは正義というものを手にすることもなく人生を終わりそうだ。そんなものはもはや手にしたくもない。

22
曝け出せ。その誤りを。何も臆することはない。かつて一度でも、完全無欠に正しいことなど聞いたことなどあろうか?

23
一度だって、わたしは助動詞の使用に成功したことがないような気がする。わたしが助動詞を使いこなそうとする情熱に反して、わたしの助動詞は一向にわたしには近づいてこない。

24
われわれは普通に何に対しても「正しい」のだろうか?という問いを発する。次の命題に対して「正しい」だろうか?と問いを発っした時、その「正しさ」に対する解答の差異はどこにあるだろうか。

2+2=4である。

いかなる個人も基本的人権を保障される権利がある。

シマウマはウマ目ウマ科ウマ属に属する。

物質は小さな粒子によって構成されている。

強いものは弱いものをいじめてはならない。

一体、われわれはどのような解答を用意しうるだろうか?

25
抽象言語はあなたの認識を精妙には表現しえていない。それでもあなたはその言語にいつまでも権威を見いだすというのか。よろしい。あなたが望むようにするといい。

26
わたしがある人を見習おうなどと言ったとする。しかしそのある人というのは片時でも彼自身を見習ったことがあっただろうか。誰かを見習うという行為にはそういったナンセンスがある。

27
わたしが「あなたは」などと言ったとき、単に「あなた」のことを指しているわけではない。わたしにとって「あなた」とは凡そ「わたし」のことでもある。

28
いかなる「歴史的」なものに対しても、「子供」のような視点、批判、懐疑を失うべきではない。どのような「命題」であっても、「生誕」ほど畏怖すべきものがあっただろうか。

29
「未来」は絶えずわれわれの「理想」に反して立ち現れようとする。それでもわれわれはこの愚かな「想像力」をもって「未来」に相対しなければならない。あなたはその「想像力」で「未来」をねじ伏せようというのか。その愚かな戯れこそが人間の証だというのか。

30
その演繹法弁証法に塗れたあなたの自己に酔いしれた顔など見るに耐えない。「愚劣」と「危険」と「悪意」から逃れきっているかのようなその油断しきった表情を充満させないでくれ。

31
「間違い」を正すだって?われわれは常に「間違っている」というのに…――まさにわれわれは適合していないのだ。そしてまた、われわれは多くの場合、適合の対象さえも捉えていない。

32
この「命題」に対して、わたしは付け加える。「しかしながら」とか「言い換えると」とか「そしてまた」などと…。躊躇いもなく虚言の元に足を進めるわたしがそこにはいる。そんなもので説明がつくなどと思っていないにしてもわたしは繰り返し「接続詞」を付け加えるのだ。見渡す限りに拡がっているかに見える表現可能性の中で、ただ一つの「接続詞」に導かれなければならないという限界に対して、われわれの現象世界は取り残されないということは断じてない。

33
人が忠誠の誓いをする相手は、どんなに巧く言葉を尽くそうが、それは自分自身ではなかろうか。わたしはそのこと(自分自身に対して忠誠を尽くすことが良いことかあるいは悪いことかということ)に対しての是非を問う気など毛頭ない。国家やほかの誰かに対する忠誠などという言い訳は止めてもらいたい。こんなことをいうわたしが功利主義者に見えるかい?

34
極寒の世界から見える世界観が、数十年後の日本の展望を示すだろう。

35
大衆という蔑称を用いるとき、もしかすると少なからずその人は大衆に嫉妬しているのかもしれない。大衆が見せる種類の喜怒哀楽をおそらくはかれ自身、自分では持ち合わせていないと考えているのだろう。その無邪気な怒号が、笑顔が、涙が、歓喜の声にかれ自身が嫉妬している可能性があるとわたしは思う。時折かれらはそれを隠さずに「あの羨ましい~」と表現する。