日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【断片003】言語言明と個人

2010年09月05日
戯言
my日本からの転載
mixiからの転載

 

正しいためには照らし合わせるべきパラダイムがなければならない

  

 


①提示される命題はいつも個人の思考から切り離されて提示される。


②ある種の哲学的散文はこの切り離しへの無力な抵抗である。


③ある種の詩もこれに類する。


④同じ命題に触れてもその命題に対する感覚は諸個人に差異がある。


⑤自分が発することがない言葉を話す人は、まったく異なった世界観を持っているだろう。彼の発した命題に対する極めて誠実な批判が時としてまったく場違いなものであるというケースは極めて多い。


共時的に一つの視野(視覚のことではない)で想像しえるイメージ、こういったイメージが複数あるとしてこのイメージを似たもの同士で比較する場合と、全く異なったイメージを互いに位置づける場合とがある。

 

また全く関係のない互いのイメージを便宜上リンクさせるという場合もある。あくまでも論理においてであり、ここでは聴覚情報などに対する考えを省く。

 

こういった心の動きが時間の経過とともに外発的な刺激と内発的な刺激に応じて様々なイメージが巡るといえるかもしれない。


⑦人間が持ちうる論理的なイメージのタイプはイメージに関わる機制の能力の限界を超えない。合理主義も神秘主義もオカルトもこういったメカニズムの範囲内で命題を生産するのである。


⑧各イメージの照らし合わしの作業が論理であり、論理的に正しいとは常にこういったパラダイムがなければならない。合理主義であっても神秘主義であってもオカルトであってもこのパラダイムの中で十分に正しいということはあるかもしれないが、パラダイムは真理ではない。


⑨自分の意見が正しいと思う時、時としてイメージのタイプの少なさとまたそれぞれのイメージが互いに関係性を与えられていない可能性も少なくないだろう。

 

正しさとは全ての用法がそうではないとしても、照らし合わせにおいて用いられる言葉であり、そういった意味で(いいや究極的には全てがそうと言い切れるかもしれない)正しいためには照らし合わせるべきパラダイムがなければならないのだ。