【心理・感情002】怒りと憎しみ
2013年03月08日
【覚書】怒りと憎悪
【転載】
目次
- 怒りと憎しみの根源について
- 生物としてのヒトにとっての怒りと憎しみの違い
- 憎しみの継続性と個体識別性
- 憎悪の対象としての他者および対象・文化
- 怒りおよび憎しみは概念を含めた対象を必要としている
- 不快な気分および状況の解消としての怒りおよび憎しみ
- 怒りおよび憎しみの正当化について
- 現代社会・情報社会における人間の憎悪
怒りと憎しみの根源について
怒りや憎しみの根源は何か?という疑問は漠然としたところがあるが、これについては生物の進化あるいは生物の営みからある意味での根源を辿ることができるかもしれない。
一つに外敵あるいはそれに類似する生物に対する反射的な反応、もうひとつにオスによるメスを巡る争いという反応という特にこの二つに怒りないしは憎しみの根源を辿ることができるのではないかと思っている。
統計的に見ても怒りによる犯罪、特に殺人というものを見た場合、圧倒的に女よりも男の方が多いと思うが、これは人類以前から続く生物の営みから見ても、この結果について特に驚きも覚えない。
実際に男による怒りには狂気じみたもの、更には程度の差こそあれ恐怖を感じる場合が多いのだが、本来的に怒りは相手にたいして恐怖を与えられるものである必要があったものであると思う。
生物としてのヒトにとっての怒りと憎しみの違い
人が生物である以上はこの怒りとは無縁ではいられないだろう。憎しみについてもこの怒りと類似しているところがあると思うが、人以外の生物が憎しみを覚えるかと問われれば、はっきりしないところもある。
つまり概ね認められない場合が多いのではないかと思うのである。
憎しみの継続性と個体識別性
憎しみは、その対象が継続して特定の対象であること、次に怒りを覚えたとしても瞬時にはその対象を認識から、もっと言えばその存在を排除できないこと、特にこの二点が怒りと憎しみという概念を分けるといえば、必ずしもそうではないかもしれないが、部分的差異は認められるのではないかと思う。
憎悪の対象としての他者および対象・文化
憎悪は必ずしも人ないしは外敵である必要性はない。それは何らかの観念である場合すらあるといえよう。理念や思想に対する憎悪、システムや慣習に対する憎悪など、これについては嫌悪感とも近い部分があるかもしれないが、大抵憎悪には、かつて一度はその対象に怒りを覚えたことがあり、怒りが継続しているとは言えないかもしれないが、怒りにも似た感情を抱かざるを得ない感情というのが憎悪ではないかと思う。
また怒りは単純に解消できる場合があるが、概ね憎悪とは長期的に継続し、一度憎悪すると概ね墓場までその憎悪を抱いたままであることが多いとすら思える。
怒りおよび憎しみは概念を含めた対象を必要としている
私は怒りや憎しみが単に気分だとは思わない。なんらかの不快な脳内物質が作用しているとは思うのだが、常に怒りや憎しみには対象が存在すること、そして怒りについても憎しみについてもそうすることで、満足を得ているとは言えないだろうが、自己の精神状態を守る要素はあると思う。
不快な気分および状況の解消としての怒りおよび憎しみ
それは良し悪しの問題ではなく、不快感の解消、一つに不快な脳内物質を取り払うという解消、二つにその不快な対象を認識の次元ないしは知覚の次元で遠ざけることによる解消というのが考えられる。
怒りおよび憎しみの正当化について
場合によっては、相手を怒るべきないしは憎むべき理由を構築して、人は怒ること、憎むことを肯定する。怒りや憎しみとは決して単純な気分ではなく、対象や理由などが付随するものであると思う。
更に怒りや憎しみは自己の思考を正当化するのにも使用される場合が非常に多い。理由づけが行われるのだが、大抵、怒りや憎しみについての理由はそれだけでは十分ではないはずである。
そしてまたその理由が十分でなければいけないという理由も十分に得られないだろうということも付け加えておく必要があるかもしれない。
現代社会・情報社会における人間の憎悪
情報社会といわれる現代社会において、わたし達は多くの怒り、多くの憎悪と付き合わざるをえない。そしてそれは以前よりもずっと身内的ではないという意味で身近でないにしても、刺激としてはそれほど以前と変わらないものを体感するのではないかと思うが、それでも本来的には身近ではなかったものであるとは認識すべきだろう。
時には数世紀前の憎悪、私たちのずっと遠くで起こっているであろう憎悪にまでもがわれわれの現前に立ち表れてくるのである。
わたし達はこの多種多様な憎悪に一定の警戒感は持ち続けるべきだろうと思うし、その詳細を吟味する必要も時にはあるだろう。それが以前の身近な人間に抱いていたのとでは違った感覚でもよいとは思う。