日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【論理・演算003】推論と専門性

2013年03月05日
【覚書】推論とパラノイア
【転載】

細分化された知識は膨大に積み重ねられているのだが、この膨大な知識の中を楽しげに走り回る無邪気な人々が現れるには、今後更に時の経過を待つしかなさそうである。楽観的な展望として、広い荒野は十分に用意されているというのは付け加えてよい気がする。

目次

 

 

チャールズ・パースの分析的推論・拡張的推論

 

アメリカの哲学者チャールズ・パースは、推論inferenceについて分析的推論と拡張的推論という二通りの推論があるといい、この分析的推論を演繹deduction、拡張的推論について更に帰納inductionとアブダクションabductionという二通りの推論があると洞察している。

 

分析的推論・演繹(ディダクション)とは何か

 

演繹とは簡単に言うと、ある規則があり、その規則に従って事例を考えた場合、どのような結果が導き出されるかというもので、算数や数学などの計算は概ねこの演繹によって導き出されると言って良い。

 

演繹はこの規則の体系が間違っていれば、概ねその結果も間違っているのであるが、規則が正しいと見做した場合、その対象となる事例を引き合いに出して出された結果、結論は正しいとする推論形式である。

 

幾つかの現代的な暇つぶしの難問は、この規則の体系を曖昧にし、難問であることを装っているものが多く、これを演繹的推論から導き出された結論と見做すにはあまりにも馬鹿げたものが多いが、あくまでも暇つぶしなのであろうと踏まえるならば、それで暇をつぶすかそうでないか選択するのみである。

 

拡張的推論・帰納(インダクション)とは何か

 

帰納とは、言ってしまえば規則を模索する推論であり、いくつもの膨大な事例から見られる一つの結果から規則を導き出すものである。

 

この帰納的推論は例外が一つでもあるならば、たちどころにその規則が誤りであると見做されるものであり、同時に例外がある可能性がある限りにおいて規則は借り物である。

 

例えば福引で10回連続でハズレが出たとする。正しいかどうかはともかくも、この事例からこの福引は全てハズレであると規則性を見出すのも、またそれまでの福引を行った事例からアタリはまだある思うのも、推論の形式からみると帰納である。

 

拡張的推論・アブダクションとは何か

 

アブダクションというのは、ある規則と結果から、その結果がどのようにその規則と関連している事例なのかを推論する形式である。

 

アブダクションは予め規則体系の正誤の是非は問わずに、とはいえその規則に従ってどういった事態なのかを考える推論である。経済学などに見られる現在の状況を様々な関数と照らし合わせて考えるような推論の多くはこのアブダクションであると見做して差し支えないだろう。

 

カール・ポパー帰納法批判

 

イギリスの哲学者カール・ポパー帰納inductionは正しいことを担保しないと見做したように、「正しい」という表現が許しえる推論は概ね演繹くらいなものであり、それも演繹はその使用する規則体系が正しいことを保証しない。

 

個人および集団における信念体系との整合性における正しさ

 

私たちが「正しい」という場合、必ず自らの信じている前提、規則性、体系が存在し、あくまでもそれに基づけばという意味で「正しい」のであって、それ以上の意味合いはない。しかしながら私たちの多くはこのケースを越えて「正しい」という概念を使用し、その「正しさ」を信じて疑わない。

 

整合性の前提と敵対者への生理的態度

 

私たちが正しさを疑うのは、その前提、規則性、体系への懐疑であり、単なる正しさの否定とは言いがたいのであるが、人は単純に自らが狩りをして得た獲物を奪われるかのような形相で、敵対者に対峙している。そして概ねそのことに気がついていない。

 

人生において直面する諸問題および推論

 

このことを踏まえた上で、人々の人生における規則について考えてみよう。ここでいう規則は一先ず推論から導き出された規則のみについての意味に限定しよう。

 

様々な慣習から専門的な知識における規則に至るまで、人は現に連続的に現前する状況の中で、意識的かどうかはともかくも、その規則性を模索している。それは時に様々な矛盾した結論、結果が導き出されているかもしれないし、諸個人の認識による差異が存在しているはずである。

 

非平衡状態・非妥協状態における生の実践者としてのヒト

 

人々はこの折り合いのつかなさとは無縁では要られないだろう。それと同時にそれに伴う感情や気分についてもどうなりうると断定しえるものでもない。しかしながら人はこの折り合いのつかなさに耐え難い傾向にあるというのは個人的な帰納的推論に基づく結論だがあるように思う。

 

人は直ぐに答えが欲しいのであり、簡単に済むならばそれでいいのである。それは無自覚的に保証された安楽を求める傾向があると見做してよいのではないだろうか。

 

戦後専門主義とサブカルチャーに取り囲まれた環境での推論

 

帰納およびアブダクションは拡張的推論であると述べたが、この拡張的推論がなされる背後には個人的な知識が前提となっている。個人の認識、知覚、理解、記憶を背景に推論がなされるのである。

 

一般的に専門的知識を学ぶことは大学を中心とした諸制度によって肯定的に受け入れられ、また近年のオタク文化もそうだが、自己を取り巻くサブカルチャー体系に簡単に身を委ねる傾向がある。

 

オタク文化を肯定的に捉えるのを仮に是認したとしよう。ただし、その肯定は必ずしもそれ以外の活動を不活発なままにしておくことまでは肯定しないだろう。専門主義に偏るアカデミズムについても同様に、その専門性以外の知識を個人や組織が躊躇いもなく切り捨てていくことまで是認されるべきだろうか。

 

活発化された拡張的推論とそれゆえの不活発性

 

拡張的な推論が現代において不活発であるとは私は言わない。逆に極めて活発になされていると見做して差し支えないと言いたいくらいなのだが、その拡張的推論は専門的領域、サブカルチャー的な領域でのみ活発であるのではないかと思う。

 

私たちを取り巻く様々な状況は決して一面的にのみ解釈されるものではない。如何なる状況も様々な観点から捉えられるし、時に様々な観点から捉えるべきなのではないかと断じたい物事も多くある。

 

このように言ったからといって私は殊更哲学の必要性を説くつもりもない。なぜならば哲学も全ての専門的な学問と同様に専門主義に陥っているからである。

 

私は決して現代人が不活発だなどと言いたいわけではない。現代人は逆に恐るべきまでに活発であり、人によっては、また組織によっては、また地域によっては疲労しかつ疲弊している。また同様に活発であるが故にゆとりをもって活動せよとも断じて主張する気はない。

 

複雑な現実認識の中に身を投じるものとして

 

言うまでもない話だが、私たちの活動は簡単なフローチャートのような簡単な推論で説明しきれるものでもなく、複雑な現実に身を投じるということは避けられない。それは必ずしも複雑な論理を組み立てなければならないことを意味しないが、専門的な知識の領域での活動から飛び出すような拡張的な活動は今後求められてくるだろうと思う。

 

この種の活動が不活発になってからこの地域限定で言えば、一世紀くらいが経過したように感じるのだが、簡単にこれを再び取り戻せばよいという結論は良かれ悪しかれ導き出せないだろう。

 

細分化された知識の荒野を生き抜くために

 

細分化された知識は膨大に積み重ねられているのだが、この膨大な知識の中を楽しげに走り回る無邪気な人々が現れるには、今後更に時の経過を待つしかなさそうである。楽観的な展望として、広い荒野は十分に用意されているというのは付け加えてよい気がする。