【コミュニケーション002】保守派のコミュニケーション
my日本からの転載
2013年02月23日
そして誰もいなくなった
目次
- 自己の正しさを推し進めていくと全体主義に至りつく
- 惰眠からの覚醒なるものの裏側
- 社会科学的議論の立場に対する批判の存在
- 反対者が瞬時に自己の意見に賛同するということの不可能性
- 表現の違いと諸前提に対する感情のリンクの違い
- 論理的前提に従うこと以前に生理学的現象に従うということ
- 日常会話における論理および感情の表出の背後にあるもの
- 主題を離れた雑談が為しえること
- 雑談という無駄話の可能性と非可能性
- 通り過ぎるという作法
- 同日記へのコメント
自己の正しさを推し進めていくと全体主義に至りつく
自分の意見こそが正しいという考え方が、矛盾や差異の一切ない気色悪い世界を作り出し、そして統一的な意見が形成されていく。
惰眠からの覚醒なるものの裏側
統一的な思想が形成されるにせよ、それは排除によって形成されたものに過ぎない。
「目覚めた」
よく聞く言葉だ。
目覚めたんじゃない。単に新しい軽蔑の対象を発見しただけに過ぎないのではないかな。自分が軽蔑されるべき存在であるということを隠蔽するためにね。
社会科学的議論の立場に対する批判の存在
特に政治学的、経済学的、社会学的な意見において意見を陳述する場合、必ず反対意見に出くわすはずである。仮に反対意見に出くわさないとしたならば、それは概ね意見に合意している人に囲まれているだけに違いない。
自分の意見について、基本的に人は正しいと思っている。信じているというよりも思っていると言っていいと思う。そして反対意見に出会う。このときの反対意見を提出した人に対してその意見が間違いであることを指摘しても、その試みは概ね失敗し、感情的な対立が生まれるものであろう。
反対者が瞬時に自己の意見に賛同するということの不可能性
そもそもその反対意見を述べた人が自分の意見に瞬時に同意し、自分に賛同してくれると期待すること自体が甘い見通しと捉えるべきなのではないだろうか。
表現の違いと諸前提に対する感情のリンクの違い
そもそも如何に意見を主張しようとも、その意見の前に彼の従っている言語の使用方法や論理の規則が異なるばかりでなく、それら一連の前提に対する感情の表れも異なると言っていいだろう。
更に言えばこれら言語の使用法、論理の規則性およびそれに伴う感情の流れは基本的にその本人は無自覚的に従っている。
しかも何故そのような使用方法や規則、感情に従っているのかについての理由は確固としたものですらないのである。
論理的前提に従うこと以前に生理学的現象に従うということ
それは論理性に従っているというよりはずっと生理学的現象ですらあると思われる。これは相手だけでなく、当然にその反対意見である自分自身についてもいえることである。
この意見の基盤をなす部分が見えてこなければ、またその点について了解できなければ、意見が瞬時に変わるなどということは起こりえない。そしてそれは概ね不可能なことであろう。
日常会話における論理および感情の表出の背後にあるもの
基本的に日常的な議論においてこの点を示し合うことは疎かになるものである。そもそもが既に政治学的な、経済学的な、社会学的な主題からは大きく外れているからである。
このことに無自覚である限り恐らく延々と論争に明け暮れる結果になるか、また逆に意見を一切述べずに沈黙し続けるという結果になるだろう。恐らくこの両者の結果は良かれ悪しかれ同根の由来に基づいているのではないかと思われる。
主題を離れた雑談が為しえること
基本的に政治学的、経済学的、社会学的な議論において雑談は不可欠であろう。
そこで行われる雑談の意図はそれが意図の全てではないにせよ、その意見の背景にある論理的、言語的、生理的なものを垣間見ようとする働きがあると思う。
そしてむしろその雑談において意見の背後にある論理的、言語的、生理的なものの摺り合わせが行われることすら多いのではないか。
雑談という無駄話の可能性と非可能性
このような雑談は一見無駄のように思われるが、そこに腹の探りあいがあるとすら言えよう。ネット空間における政治的議論、経済的議論、社会的議論の多くが徒労に終わるのは、この種の雑談が等閑にされていることにも由来するのではないかと思われえる。
そしてこの種の意見の背後にあるものへの探求がなされない限り、人は流行の意見、旬な意見、手頃な意見、尤もらしい意見にあっさりと飛びついてしまうのではないかと思う。
無駄話のない話というものこそが無駄話であるということはよくある。とはいえ、無駄話も単に無駄話であるというのも常であろう。
通り過ぎるという作法
意見の対立を前にして通り過ぎるという選択も十分にあるが、恐らく「通り過ぎの作法」というものもあるに違いない。
という感じの無駄話。
同日記へのコメント
1: H
ぶっちゃけ、今の保守陣営において議論は難しいですね。
さっさと諦めて雑談にしたほうが話が続きます。
私はさらにネタの乱用をしますし。
2: 初瀬蒼嗣
>>1 Hさん
なるほど、確かにそうかもしれませんね。
私は個人的には保守陣営は内部で対立することは不可避であると確信しています。具体的な状況で意見が分かれるのは当然ですからね。いい例えではないと前置きした上で言うならば、数字を2にするか4にするか7にするかみたいな議論を延々としなければならないようなところが保守派の政治的議論、経済的議論、社会的議論にはあると思います。
そしてそれについて逐一全部、一般的には一職員なり一社員が調べてもいられませんし、調べたところで確証もないというのも常なのでしょう。
そういう議論はどこかではしなければならないというのは言えるとは思いますが、案外意見の結論は個人的な生理的現象に基づく感情に基づいている場合も多いはずです。そういったものに惑わされないためにも人柄とか人格というものの探りあいは不可避である部分はあるでしょう。そんな中でこんな奴と対話してもしょうがねえわって結論に達したら、それはそれでいいと思うし、非難したところで意見が変わるわけでもありませんので、立ち去るという選択肢も当然うまれるでしょうね。
本来ならばサヨクよりももっと対話しなければならないはずなのに、解消しきれない保守同士の意見の対立によって対話にならず罵詈雑言で終わってしまっています。結局は程度の問題なのでしょうけれど、ある程度こういったものを克服していく作業が保守陣営には必要であるように感じます。