日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【コミュニケーション001】会話について

my日本からの転載
2013年02月16日
【覚書】会話について
mixiからの転載

目次

 

 

会話における複雑感情

 

正直、会話は楽しいながらも苦痛なものだ。大体が意見が食い違うし、ああいえばこういうという感じになってしまうし、相手に合わせるためにも、様々な意味合いでの嘘をついているような感覚さえ覚える。

 

会話の操作性と非操作性

 

また自分の発言が既にして自分の意見ですらなくなっているという感覚すらある。ある意味で相手の解釈など関係なしに話せるならばそれはそれでいいかもしれないが、それというのはそもそも会話ですらないような気もする。発言をしているのであって会話ではないとは言えるかもしれない。

 

会話における了解性と非了解性

 

理解してもらうために、といってもそもそも自分が様々な意味合いでの理解をしていないものだ。そもそも理解することで万事了解しあえるものでもないし、理解することはあくまでも理解することであって、一般的に使用される意味での真実ではないかもしれないし、また確実な結論に行き着くともいえないかもしれない。

 

会話との接近性と離脱性

 

会話なんて楽しければいいのだなんてとてもじゃないけど思わないし、逆に苦痛なので黙して会話から遠ざかるのが上策であるとも思わない。

 

会話の目的性と無目的性

 

確かに会話は一般的に使用される意味での真理を模索するためのものではないかもしれないし、またお互いが共通認識を持つためのものでもない。酒場で分けも解らず喚き散らすような状況もあるだろうし、何か目論見があって、つまり何かを獲得するために、快感も含めて、会話をするというのも確かにあるだろう。

 

会話における確実性の探求と情報交換

 

そうであったとしても、それでも常にとは言えないだろうが会話には何らかの確実性を求めている傾向が確かにあると思う。人類が言葉をお互いに交わし始めた頃から、なんらかの意味での、それは非常に生活に密着したものであろうと思うのだが、確かな結果を求めていたものと思う。

 

会話における非情報交換性と感情

 

会話は単純に意見交換を行うだけの手段ではない。時に声を荒げたり、強く意思表示したり、泣いたり、笑ったり、騙したり、相手にとって知りたくもないことを告白したりと、論理に感情が絡んでくる。

 

感情という非常によく解らない由来のものが、そしてそういったものが一切ない人間など存在しないだろうが、関わってくるのである。そしてその感情がまたよく解らない論理を持ち出してくるとも言えるかもしれない。同時に論理というのは常に感情の存在を前提としているとも言えるだろう。論理は感情には先立たない。

 

感情の根源の非合理性

 

感情とは何か、という問いかけに対して答えをみつけるのは、もしかすると難しいかもしれない。例えば、具体的に感情というものを示してみようと試みるとしても、感情というものを指示できるかどうか甚だ疑わしいと思う。

 

泣いている人あるいは怒っている人を前にして感情的であるという表現は可能だろうが、泣いていることも怒っていることも感情それ自体ではない。言い換えると泣いていることは感情の表れとはいえるかもしれないが、感情の現れは泣いていることであるとは言えないだろう。

 

感情の非指示性

 

感情を指示することはできないかもしれないが、感情と漠然と表現されることに関わる一般的かつ専門的な考えや学識などは存在しているとはいえるかもしれない。これらの考えや知識は、それ相応に会話を行う上で、会話に限った話でもないが、ほぼ確実に言い回しに影響してくるというのはいえるだろう。

 

感情の非指示性と論理の非指示性

 

感情というものを計り知るというのも厄介な話だが、同時に論理というものもまた厄介なものである。感情について試みた問いをここでも問うことにするとしたならば、論理というものを指示できるかという問題がある。感情についてもそうだが論理についての定義づけというのが必ずしも論理そのものを指し示しているとはいえないかもしれないし、またもし十分に指し示しているとしたならば、そのような論理の定義づけから一歩も二歩も足を踏み外す必要があるかもしれない。

 

論理の理解と会話の作法

 

論理についても同様に論理といわれるものについての理解はほぼ確実に言葉の言い回しに影響してくるというのはいえるだろう。影響してくるとはいえるが、必ずしもその理解を推し量ることができるとはいえないかもしれないが。