日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学027】ニヒリズムの自覚

my日本からの転載
2012年08月14日
【覚書】ニヒリズムの自覚

ニヒリズムを如何に克服すべきなのか、どのように向き合うべきなのかといったことと向き合わなければ、私たちの保守論も愛国心も結局のところ虚しいものになってしまうのではないかという恐れというか畏れが私のなかにはある。

 

これは非常に厄介な課題であるが、この課題に向き合わない限り我々の破局はますます加速するのではないかとも思うのである。

目次

 

 

ニヒリズムの一つの定義

ニヒリズム【nihilism】

虚無主義

①すべての事象の根拠に虚無を見出し、何者も真に存在せず、また認識もできないとする立場。

②既存の価値体系や権威をすべて否定する思想や態度。ツルゲーネフニーチェカミュなどに代表される。

 

現代社会を飲み込んだ虚無の空気を感じること

 

私にとって今までも、そしてこれからも、死ぬまで付き合わざるをえないと覚悟しているもの、その一つがニヒリズムであろうと思っている。昔から今に至るまでに世間に流布されるあらゆる言説に対して、私は虚無というものを感じざるを得なかった。

 

それがどんなに綺麗な言葉で表現されていようとも、その最たるものが平和主義あるいは人権というものであるが、世間に飛び交っている言葉に虚無の空気を感じざるを得なかった。

 

生に貫かれた社会への不信と自己への不信

 

そしてそれは同時に、人間不信を意味し、また自己不信をも意味していたと思う。私が何かを耳にするとき、そしてまた自分で何か言葉を吐くとき、それが立ちどころに虚無の言葉となっているような、そんな妙な感覚を覚えたものであり、この感覚は今も消えない。

 

虚無感は克服されうるのか

 

そんな訳で私は、心のどこかで自らの虚無に終止符を打ちたいと願い、その方法を模索していたと思う。私が強くこのように感じたのは、何かしらの懐古の念であったと思う。古きもの、歴史的なものに私は虚無を克服するための何かを期待していたのは間違いない。

 

私は虚無論というのは非常に厄介なものであると自覚しているつもりでいるし、取り立てて取り上げる題材なのかという疑問も抱いているというのもあるのだが、現代社会が突きつけた旧来の社会規範や道徳、慣習や習俗、伝統に対する否定というものに向き合うとき、虚無論は良かれ悪しかれ向き合う必要性があるものであろうと思う。

 

西部邁が描いた虚無の外貌

 

私が虚無論に始めに出会ったのは西部邁氏の『虚無の構造』である。私はこの著作に出会う以前は、学ぶことに対する苛立ちすら覚えていたというのを告白したい。私はかつて、といっても今でもその感覚は抜けないが、私たちが学べば学ぶほどに社会を破壊しているような感覚を内心抱いていた。この感覚は間違っているのかもしれないが、私たちが学ばなければならないとされていた学問なるものの内容に満足できなかったというのは本当である。

 

現代社会・現代文明に対する否定し難い違和感および不快感

 

また私たちが現に構築している文化を眺めてみても、それが私たちが学んだことの影響を受けていると感じざるを得なかったのである。

 

確かにそこには魅力的なものもあるし、また愉快であり、知的であるものも存在しているということは否定し難いが、全体として眺めたときの現代社会に対する違和感というのは払拭できるものではなかった。

 

このような感覚を持っていった自分にとって見れば、多くの評論や小説は満足できるものではなく、むしろその多くが不快であり、半ば望みを失いつつ書店を駆け巡っていた時期があった。

 

日本列島を眺める北国の青少年たち

 

そんな精神状態の中で読んだ『虚無の構造』には衝撃を受けざるをえなかった。もしかすると西部氏が北海道出身者であるということも私が衝撃を受けた一つの要因かもしれない。

 

はじめてその書物を手にとったときは、内容をよく理解できずにいたと思う。それは今でもそうかもしれないが、西部氏の著作の中でも最も難解な部類に入るだろう『虚無の構造』と長い時間をかけて格闘したことは今でもいい思い出の一つである。

 

当時、大の読書嫌いであった自分があそこまでのめり込んだというのは今でも不思議な感覚であるが、憑かれたように貪りついていた。このような経験は後にも先にも日本人の著作ではない。

 

ニヒリズムとの格闘は絶対的な敗北が約束されているという世界観

 

その中で記憶違いもあるかもしれないが、現代人はニヒリズムをポーズとしては玄関から締め出しているが、裏口から招き入れ、足の先から頭のてっぺんまでどっぷりとニヒリズムに浸かっている。そこをなんとか顔一つ出すところまで(玄関先までだったかもしれない)持っていく必要がある。

 

ニヒリズムを克服しようとするのであれば、ニヒリズムを正しく凝視しなければならない。という表現があったと思う。私はその時、ニヒリズムというのは完全に克服できるような代物ではないという考えに至るのであるが、これは今に至るまで考えは変わっていない。

 

何者であるよりも先にニヒリストとしての自己を自覚せざるを得ないということ

 

私が自らをニヒリストではないとは言えない立場であると構えるに至ったのはこのためであろう。

 

また私にはニヒリズムというものに対して流体のようなイメージもこの時定着したとも思う。ニヒリズムを突っぱねようとするその言葉によって、反対側からニヒリズムを引き込んでいるのではないかという感覚をこの時に持ち始めたと思う。

 

私は自らが今しがた吐いた言葉を疑わざるをえない感覚をこの時くらいに持ち始めたと思う。これは同時にそれを疑っていることも疑うということにもなる。

 

また現代人として生まれ、現代人として生活している以上、どんなに綺麗事を述べたところで私たちはニヒリストに過ぎない、という感覚が私にはある。言い換えると、私はニヒリストに違いないと私が言ったとき、あなたもそうに違いないと私は思っているよという意味でもある。

 

深淵を覗き込むときにこちらを見返してくるもの

 

虚無論というのはニーチェを読んでも、非常に厄介なものだと感じる。深入りしすぎるべきではないもののようにも感じるし、またニーチェ以降の実存主義というものにもその厄介さは付きまとっていると思う。

 

簡単に一つだけ例を挙げるならば、病を克服しようとするが故に別の病を引き込むという可能性が虚無論のなかにはあるように感じる。

 

それは良かれ悪しかれニーチェ自身がそうであったようにである。更に言えば、ヴィトゲンシュタインなどにもその症状が現れているようにも感じる。繰り返すが良かれ悪しかれという言葉は付与しておきたい。

 

ニヒリズムとの終わりなき戦いと保守派の態度について

 

しかしながら、ニヒリズムを如何に克服すべきなのか、どのように向き合うべきなのかといったことと向き合わなければ、私たちの保守論も愛国心も結局のところ虚しいものになってしまうのではないかという恐れというか畏れが私のなかにはある。これは非常に厄介な課題であるが、この課題に向き合わない限り我々の破局はますます加速するのではないかとも思うのである。

 

以下同日記へのコメント

1: T


以前読んだ本に、ニヒリズムニーチェの著書を和訳した先生が解釈を間違えて伝えたように書いてありました。

もしかしたなら、ニーチェは既存の価値体系や権威をすべて否定したのではなく、現実に潜む様々な問題に矛盾を見い出し、それを解決出来ない事に絶望したのではないでしょうか?

日本の多くの作家が悩んで自殺するのと、何か似てませんか?

『神は死んだ』とニーチェは叫んだそうですが、唯物論だけではとうてい理解しがたい根の深い懊悩が人間社会にはありえませんか?

そこに解決の糸口を与えてくれるのが、宗教ではないですか?

 

2: 初瀬蒼嗣 


>>1 Tさん

そうですね。ニーチェについてはそういうところがあるかもしれません。「神は死んだ」と言葉は意図的かどうかはともかくもニーチェはかれ自身の代弁者なのかどうか解りませんが、ニーチェが作り出した「狂人」および「ツァラトゥストラ」に語らせていて、自分自身で語ることを避けているようなところがあります。

現実に潜む矛盾が、例えば数学に見られる不完全性定理に見られるように解決可能なのかどうかといえば不可能なのではないかと思えますが、少なくとも多くの現実に現前する命題が無矛盾ではないということが証明できないという誠実に向き合えば解決不能なものに連続的に付き合わざるをえないというのがあるように感じます。

これについて宗教に解決の糸口があるというのは私には解りかねます。少なくとも特定の宗教を指さずに宗教全体を指して解決の糸口があるというのであればなおさらよく解りません。もし宜しければ、どうしてそのように思うのか教えていただけましたら幸いです。

 

3: T


>>2初瀬蒼嗣さん

≪現実に潜む矛盾が、例えば数学に見られる不完全性定理に見られるように・・・・≫

非常に高邁な理論で私のような一般人は理解に苦しむのですが、私が考えたのは何もそのような学術理論上の事ではなく、人生でよくありそうな問題なのですが?
例えば、男女間で愛情が何かの切っ掛けで憎しみに変わると言ったような事です。
このような事態に遭った人間の苦しみは並大抵のものではないでしょうし、時間の経過しか解決法が無いように思えますが、某宗教家の言を借りますと、『男女間には真の愛は存在せず、そのような事態になったのは両者の縁が切れたから』『摂理と言うか神と言うかそのような崇高な存在が背後に』・・・・このようになるそうですが?

要するに、哲学者も学者の大先生も人生を3次元的にしか捉えないから問題が解決できないと言う事らしいのですが?

 

4: 初瀬蒼嗣 


>>3 Tさん

殊更宗教である必要があるとは思えません。「縁が切れた」という表現は一般人でも使いますし、「摂理というか神」などといっても「へえそうなの?よく解らないや」というのが多分私の感想ですね。人によっては宗教に求めるのもいいでしょうけれど、宗教が常に様々な解決方法の糸口をくれるのであれば、みんながみんな既に宗教を信じているように思います。

 

5: T


>>4 初瀬蒼嗣さん

宗教は駆け込み寺のようなものかもしれません?

人生が順調な人には必要ない物かもしれませんね。

 

6: 初瀬蒼嗣 


>>5 Tさん

個人的には宗教論をここでやるつもりはないですね。基本的に私には宗教の素養もなければ、それほどの関心もありません。決して人生が順調であるためでもなければ、宗教を軽蔑しているからでもありません。