【思想・哲学016】現代社会のニヒリズムを凝視して
my日本からの転載
2011年07月24日
漣のテーゼ・1
少なくともこう言った世界を彷徨い、惑い、退屈するというのは、個人的に思うに、人の宿命のように思える。主義・主張とは人にとって精神安定剤のようなものであると同時に、精神を錯乱に追い込みさえもする代物であるのだろう。
目次
- 指示・定義・把握する対象について
- 人類が見出してきた世界と認識
- 社会科学の求める正しさに関連して
- 共感および同情するものとしてのヒト
- ヒトの同情および共感のない残虐性
- 同情および共感の非有効性
- 技術社会すなわち同情および共感が廃れる新時代
- 現代に寄生したニヒリズム
- 世界の無意味性の中で格闘すべきことがあるとすれば
指示・定義・把握する対象について
心とは何か?とかクオリアとは何か?とか自我とは何か?といった問いに対して、私たちはそれを明確に指示したり、定義したり、把握したりすることはまずできない。
たぶん、私たちができることは様々な情報や表現を用いて、つまり指示できない状態、定義できない状態、把握できない状態の中で指示できそうな、定義できそうな、把握できそうなものを感覚的に捉え、それをモデル化することによって指示したり、定義したり、把握したりしているにすぎない。
また、そういった指示や定義や把握を行うことは、自分自身を知るという作業でもあるが、それを他者から他者の把握したものを受信したり、他者へ自分が把握したものを受信したりするという作業でもある。
私たちがそういった作業をするのには、少なくとも私たちに感情や気分といったもの、感覚的な快苦の存在するところを無視するわけにはいかない。それは神経系や脳内ホルモン等が関係しているようである。
人類が見出してきた世界と認識
私たちが私たち自身を見つめたり、あるいは自分たち以外のものを見つめたりしてきたことで、様々な現象を実験などのなかから見つけてきた。それは例えば人体の細胞であったり、DNAであったり、分子であったり、原子であったり、クオークであったりするのだろう。
それと同時に人類は観察するということも観察してきた。また様々な脳内実験なども展開してきた。思考装置の条件内で思考する中から様々な物の見方が生まれてもきたのだろう。さまざまな仮説が展開されてもきたのだろう。
観察は決してミクロの次元にばかり向かっていたわけでもなく、マクロな次元にも人の関心は当然に向かっていった。宇宙の創造、太陽系の変遷、地球の変遷なども様々に観察や実験を行うなかで仮説だてられてきたのだろうし、またシュミレートされてもきたのだろう。
社会科学の求める正しさに関連して
また、自然科学的なもの以外でも、人類の歴史なども様々な資料から過去は様々にシュミレートされてきたのだろうし、そういった中から人は幾度となく正しさを追い求めてもきた。政治学や社会学、経済学などもその主義主張の如何を問わずに正しさを追い求めてきたように思える。
しかし厳密にいってその正しさとは何に対する正しさなのかは実際のところはっきりとしていないというのが実際のところだろうと思う。
少なくとも観察し、思考する人間にとって「正しさ」の対象の一つに「真実」という捉えどころのないモデルが、様々な思考モデルに組み込まれていて、そのモデルが私たちにとっての「正しさ」の指標となっている部分があると思える。
共感および同情するものとしてのヒト
自我を持ち合わせた人にとって、クオリアにあって孤独な個人にとって、同様な存在、共感すべき存在がいることの意味は非常に大きい。また人は愛玩動物いわゆるペットなどにも共感することもあるだろう。
しかしさらに拡大していくとどうだろうか。家畜や野生動物、植物、鉱物などにどれほど共感すると言えるだろうか。
一般的に人が共感を覚えうる限界は動物あたりまでだろうが、不思議なことに人は擬人化という想像を働かせることは時としてある。またそこに擬人的偶像を関連させるという思考も十分に働かしえるような思考をする。
ヒトの同情および共感のない残虐性
また人は如何に同情し、共感したからといって、自己とあくまでも異なる他者に対して、時に目をそむけたくなるほどの残虐なことをするものである。
自我にとって他者は感情をもっていること、気分をもっていること、快苦を感じているということを想像することはできるが、それは根本的に自己のそれとは異なり知覚されない。それはあくまでも自己にとって他者のそれは感じえないものであり、想像するものである。
同情および共感の非有効性
また同情すること、共感することに神経を使ったからといっても、自己はそれで人を幸せにできるとも限らないし、不幸にしないとも限らない。
つまり他者を幸せにしたいという想いが強ければ強いほどに他者を幸せにできるともいえないし、また逆に他者を幸せにしたいという想いが他者の幸せに何の関わりもないとも言えない。
技術社会すなわち同情および共感が廃れる新時代
人は人と関わることによって自分の意味や役割を見出しえるものである。現代は科学技術の時代である。
少なくともそういった時代にあって人は無機物に、無機、時空の極小方向と極大方向に神経を割かれる。
私たちは進化の過程で自己の無意味性を発見し、それに向きあう時間を与えられた。
現代に寄生したニヒリズム
それは恐らく現代において始まったことではないだろうが、少なくとも文明とはこの無意味性と向き合う時間が割り当てられているものであると思える。
つまり文明はニヒリズムと無関係ではおれず、文明のあるところには必ずニヒリズムの空気が漂っていると言えるだろう。
世界の無意味性の中で格闘すべきことがあるとすれば
無意味性に対する脱却方法論は、絶えず理想と結びついている。つまり自己が想像した理想的世界、ユートピアと結びついている。
私自身は徹底的な決定論の側には立てないが、ユートピアの想像者にとってニヒリズムは我慢がならないものであり、現実を痛烈に否定し、現実に苛立ち、罵声を浴びせる。
少なくともこう言った世界を彷徨い、惑い、退屈するというのは、個人的に思うに、人の宿命のように思える。主義・主張とは人にとって精神安定剤のようなものであると同時に、精神を錯乱に追い込みさえもする代物であるのだろう。
そのことの是非など問いただして何の意味があるのだろうか。少なくともそういった世界で生きるだけであろう。何故なら、人はそういった状態からは抜け出せないように思えるからである。決してそれは不幸であるということにもならない。