日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学013】論理に関する原子的性質と波動的および空間的性質

my日本からの転載
2011年07月12日
論理波動論

目次

 

 

論理原子論のアンチテーゼとして

 

私個人の考えとして、人は波の中で生きて死んでいくものだと考えています。

 

決定論的な視点を持てない人にとってはこの波をある点から傍観することしかできません。

 

そしてまたその波の一部の小さな構成因子でありながら、また一つの波の全体のようでもある。

 

波といっても非常に大きな周波数の波から非常に小さい周波数の波が複雑に絡んでいる。

 

その一つ一つに「エネルギー」、東洋風に言えば「気」が宿っている。

 

馬鹿馬鹿しいと思うことも必然的に馬鹿馬鹿しく進んでいき、そもそも馬鹿馬鹿しいと思っていることの方が馬鹿馬鹿しいとさえ思えるほどに、それは単に感情と思考における波の瞬間にあるだけだ。

 

決定論と自由意志論の狭間で

 

私は結果論としての決定論はある程度受け入れられる。

 

起こったことは起こるべくして起こったのであり、それを止められることはあり得なかったのであり、その是非を問うことには、それ以後の個人の未来予測における意味くらいしか見いだせない。

 

未来に対しては決定論には立てない。

 

起こるべきことが起こるのだろうが、その相貌を見ることなどおおよそできないからである。

 

だから普通に考えて、いろいろ思いめぐらせて生活すればいいと思う。

 

恐らくそれも考えるべくして考えているのだろうが、だからといって悲観に絶対に到るものでもない。

 

願望という欠乏の潮流・渦

 

願望というある種の欠乏が流体力学のように波や流れ、渦を作り出す。

 

必然的と思えるようなこの波、流れ、渦のようなものを「感謝」できるような瞬間があればおおよそそれが幸福の瞬間というものだろう。

 

業の肯定

 

ある種の虚脱感があったとして、その虚脱感が大きな波のうねりの一つとして、そのあとの大きな流れが起きるかもしれない。

 

私は人を不適当に馬鹿にするし、自分を誤って見積もってもいるだろう。

 

たぶん、それは私だけではないはずである。

 

それを否定したとしても、一向にそういったことは続き一つの流れとして動いている。

 

こういったものを「業」というならば、個人的にはこの「業」を否定する意義を見いだせない。

 

仮にこれを肯定するとしたならば、恐らく最初の仮説、一つのモデルとして私は「業を肯定する」という瞬間にただあるだけなのだと思う。

 

私がこのように書くのはその流れが流れに任せて動いているということだと思う。

 

論理原子論と波動モデル・空間モデル

 

私は論理原子論には立てない。

 

原子論的な仮説を模したこの仮説によって抜け落ちているのは、論理が波であるという性質に違いない(フレーゲラッセル、ヴィトゲンシュタインあたりの時代と原子モデル全盛の時代がどういった関係にあるかはもしかすると興味深いことかもしれない。

 

少なくとも物理学とはどうも縁がなさそうなニーチェの文体はこのあたりの文体と対照的である)。

 

物理学に基づくアナロジーの一つとしてそういった観点があっていいと思う。

 

それは現代的な思想の多くが原子論に傾いているのに反してその前の時代はそれほど論理は原子論の体をなしていなかった。

 

おそらく次の時代は論理を波の一部と考える時代だと思う。


海洋国家と波

 

我が国は海に囲まれている。

 

恐らくもっとも「波」に慣れ親しみ、畏怖した民族は日本人であろう。

 

我が国の文化はだから「波」の文化ですらあるのかもしれない。

 

この「波」にのっているものが栄え、のっていないものは廃れていく。

 

廃れたとしてもまた新しい「波」が訪れる。必然的に「波」はやってくる。

 

日本という国で生きることは恐らく他の内陸部の国と比較しても「波」によって様々なものを見ることができるだろう。

 

日本人はこの多様な、文化的なものも含めて小さな周波数の波が漂っている国に住んでいる。多分そういったものが日本的なのだと思う。

 

以下同日記コメント

1: T


このような考えは特別に新しいものではなく、西洋ではフーリエの時代から始まっているように思います。かつてニューサイエンスが流行したときも、タオ自然学などでカプラが似たようなことを述べていました。かつて私自身もそのような考えに傾倒していた時期があり、貴殿のおっしゃることも分かるような気がします。しかし、日本では西洋よりも相当前からそういう考えが伝統的に伝えられてきたようにも思われます。路傍の石にも言葉にも宿る何かがあると、信じられてきましたから。

 

2: 爽籟 
>Tさん

コメントありがとうございます。思いつきで書いていますので知識が圧倒的に足りないというのは否めませんね 笑。タオ自然学ですか、知りませんでした。F・カプラで検索に引っ掛かりましたが、あまり日本では広く認知されていないみたいですね。

確かにそうですね。日本は伝統的にそういった考え方をしているように感じます。そういったところから生まれる私たちの伝統的な習慣や礼儀、道徳などは、反日教育の凄まじさから生まれた極端な偏見をもって見なければ魅力的に感じて当然なのだろうなと感じることがあります。日本の神話や宗教における魅力というのは、まだまだ現代的な考え方に従って再び表舞台に現れる要素がかなりあるのではないかと最近考えるようになりました。

日本はいろいろ問題もかかえていますが、それでも面白い国です 笑。いろいろ教えていただきありがとうございます。

 

3: T
>>2 爽籟さん

たぶん爽籟さんが日記に書かれたことは、シンクロニシティによるものなのかもしれませんね。こういう発想が無意識的に湧いてくること自体、ある意味で凄いことなのだと感じます。少なくとも私には無理です。それから知識なんてあまり関係ないと思いますよ。思いつくこと、感じられることが凄いことなんだと思います。知識を持つ人は世の中にたくさんいます。しかし知識だけあっても、それは知っているだけのことにすぎません。今の国会議員のように知識があっても知恵がまったくない人がたくさんいますから。偉そうなこと言って大変すみません。

私も最近そのように感じるようになりました。こういう時代ですから、より重要になってくるのかもしれませんね。

>日本の神話や宗教における魅力というのは、まだまだ現代的な考え方に
>従って再び表舞台に現れる要素がかなりあるのではないかと最近考える
>ようになりました。

 

4: 爽籟 

>Tさん

コメントありがとうございます。これは日本だけに限らないかもしれませんが、アカデミックな場に大きな見落としがあるのではないかというのは考えるべきなのではないかというのは思います。少なくとも江戸期の日本にあって教育の場は何をすべきかということを武士を中心に激しく公に関わる議論が展開されていたはずです。極東と呼ばれる地域で大きな改革ができたのは、本当に「奇跡」の名を冠するにふさわしいと感じるほどに、他の地域ではまずありえない出来事だったと私は思います。これを完全に近いというほどに自ら放棄してしまったというのは、敗戦に由来する部分もありますが極めて重大な痛手だったのではないかと思います。

あくまでも私の単純な推測ですが、日本の早期復活は非常に難しいと考えます。しかし堕落した体制はかならず滅びるはずです。次の世代のために着実な土台を用意してあげるためにも、物事を真剣に見つめ、議論を絶やさないことが重要だと感じます。

私などいつも失敗ばかりで、気力もそんなにないし、果敢さもない微力な人間に過ぎませんので偉そうなことは何も言える立場にありませんが、多少はやはり貢献したいです 笑。

こういった対話をしていただけるのは大変にありがたいです。ありがとうございます。