【政治思想003】人権思想との決別
my日本からの転載
人権との決別
2011年07月07日
落書き
人権思想を仮に批判すれば、反人権主義者として残虐で冷酷、野蛮で、レベルの低いものと見做されるだろう。
これは一つの単純な論理から導かれる結論にすぎない。
はっきり言えば、私はここを明確に否定しなければならないと考えている。
目次
- 人権が人間に与えられた当然の権利であるということの反証可能性について
- 基本的人権が達成した絶対的な権威主義
- 人権批判は決して残虐でも冷酷でも野蛮でもない
- 真理とは単純なものでなければならないという幻想
- 保守思想と人権思想との対立
- 同日記へのコメント
人権が人間に与えられた当然の権利であるということの反証可能性について
個人的な考えとして、私は人権思想の側には立てない。「人間に当然に備わっている権利」など知らない。
仮に誰かからその権利の具体的な件を挙げられたとしても反証可能だと思っている。
それはある種の帰納法的な命題だし、ある種のアブダクション(推論)的な命題なので、プラグマティズムに基づく見解として、それは単に仮説に過ぎない。
しかも、おおよそすぐに反証される程度の仮説なんだと考える。
基本的人権が達成した絶対的な権威主義
基本的人権の尊重という概念は、日本国憲法の根幹をなす概念でもあり、民主党および社民党、公明党などを中心にほぼ懐疑を許されない概念に定着してしまった。
これは日々学校でも教えられているし、メディアでも懐疑を許されない概念として定着している。これはヨーロッパを中心に極めて地位の高い観念になっている。
人権批判は決して残虐でも冷酷でも野蛮でもない
人権思想を仮に批判すれば、反人権主義者として残虐で冷酷、野蛮で、レベルの低いものと見做されるだろう。
これは一つの単純な論理から導かれる結論にすぎない。
はっきり言えば、私はここを明確に否定しなければならないと考えている。
人は「人権思想」がなければ野蛮で、冷酷なのか。
基本的人権という概念を取り入れている国は野蛮ではなく、冷酷ではないと常に言えていただろうか。
真理とは単純なものでなければならないという幻想
人権思想は「真理は単純でなければならない」という一つの誤った仮説を前提としている。
そもそも「真理」などという言葉に対応するものが存在するのか、あるいはそれを指示できるのか疑わしいが、少なくとも日本の本来の伝統には基本的人権を保障するなどという概念などなかった。
しいて言えば、そのような概念がなかったからこそ、日本は他国と比較しても多様な文化を築くことができたのではないか。
保守思想と人権思想との対立
個人的にはこの「人権思想」に痛烈に敵対することが、現在求められていることではないのかと思えてならない。
繰り返すが、反人権を唱えたとしてそれが野蛮であり、粗野であり、低レベルであると証明する手立てなどないということは明白ではないかと思う。
同日記へのコメント
1: M
声高に主張し尊重せよと法令化しなければ守られなかった,,,からこその人権思想なのでしょう.明文化せずとも/言葉に表さずとも,慈愛の道徳が生きていれば人権は遵守されるはず.しかし左党は,かの大戦以降,道徳の概念を思想に書き換え続けてきましたね.
Venn図にすると,人権思想は道徳の中に含まれている.よってことさらに敵対する必要は無いと思うので,爽籟さんが敵対したいのは「道徳を人権に書き換え続けている輩/その思想について」ではないかと勝手に推察しました^^
2: 爽籟
>Mさん
コメントありがとうございます。日記に書いている内容はこの日記に限らず暴論になっているだろうと思いつつ書いているところもあります。たとえ暴論でも顕在化することで議題になりますし、そもそも問題点のない論などどこにもありませんので 笑。
確かに「人権」を「利用する」ことは色んな意味で目的に到る近道であったと思います。個人的には「人権」思想のおかげで暴論を吐いても罰せられない、処罰、処刑されないというのは有難いものです。まあ、軽蔑はされるんでしょうけど、そのくらいは甘んじて受けなければなりませんが 笑。
私は決して熱狂的な道徳推進者ではありませんし、自由を無条件で歓迎すべきなどとも考えていません。ただ、絶対的な神、一神教的な神、人類のある地域で生み出されたこの種の神との契約関係にない一般的な日本国民は伝統的な、習慣に属する道徳体系に対して積極性をもって近づかなければならないとは思います。
クリスチャンでも、ユダヤ教徒でも、イスラム教徒でもない国民、日本列島で生を営んできた民と言い換えてもいいかも知れませんが、いくらなんでも安易にキリスト教的な亜種の一つの思想を無批判に受け入れるというのは欺瞞だとは思います。
人間の「権利」と言いましても、功利主義的な意味での「権利」とそれ以前の意味での「権利」は異なるでしょう。本来「権利」は「整合性」(少し概念をずらせば妥当性)を意味する言葉ですから照らし合わせる対象が必要です。
少なくともそういった「妥当性」は良かれ悪しかれ地域的なもの、国柄などに準拠すると思います。そしてまた時代によってもその「妥当性」は変遷して当然だと考えます。そういった前提の是非を問わずに「人権」、「人全般における妥当性」を「国家」が保障するというのはナンセンスであるように感じます。「国家」にはそのようなこと(そもそもどのようなものかすら分からない)をする「力」もなければ、心もないものだと思います。