日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学011】意志論のための名辞と対象の考察

my日本からの転載
2011年06月22日
意志についての草稿

 

意志への問い

 

「意志とは何か?」という疑問に対して、どのような解答を用意したとしても恐らく十分な答えになるとは言えないだろうと思う。

 

また、「意志とは何か?」という疑問自体に対して、もしかすると貴方は疑問を持つかもしれない。貴方はそもそもこういった疑問を持つことがナンセンスのように感じるかもしれないし、言葉遊びに過ぎないと考えるかもしれない。

 

場合によっては、辞書を引いてそれでお終いという考えもあろう。それはともかく、そういった様々な批判に対して私は十分な反論ができるとは思わないし、私にとってその反論に答えることがここでの目的でもない。

 

私は「意志」という言葉に対してはっきりとした明確な「対象」を示そうとしているわけではない。「意志」というのは一般的に「抽象名詞」という扱いを受けていると思うが、私は物質的な「名辞」と「対象」の関係であれば、「名辞」に対して一対の「対象」を導き出せるという立場にも立たない。

 

物質的な名辞・固有な名辞と対象

 

物質的な「名辞」、単純に「リンゴ」あるいは「水」、そういった「言葉」を指すとしても、ここでいう「リンゴ」あるいは「水」が或る「対象」を「一つだけ」持ち出すという関係にはないだろう。

 

例えば、目の前にリンゴの絵が描かれたカードが置いてあるとする。他にも様々な果物の絵が描かれたカードがあるとする。私が「リンゴのカードを取ってください」と貴方にお願いをしたとしたら、貴方はそのリンゴの絵が描かれたカードを恐らく取るだろうと思う。

 

それは実際リンゴではなくリンゴの絵であるのに、貴方はそれをリンゴのカードとして扱ったことになる。つまりリンゴの描かれた絵のような像から、貴方はリンゴとして認識することができるだろう。

 

もしかすると、貴方は「これはリンゴの絵なので、リンゴではない」といってカードを取らないかもしれない。リンゴの写真が印刷されたカードならばどうか?ここでもしかすると貴方は「これがリンゴのカードだ」と納得するかもしれない。

 

私はその時、「貴方は意地悪な対応をしているのではないか?」と思うかもしれないが、確かにそういった見方はできるかもしれない。しかし、こうも考えることができると思う。つまり、そこにあるのはリンゴの写真が印刷されたカードも実際はリンゴという物体ではないのであり、私は場合によっては「それだってリンゴじゃないのに」と不満を言うという選択を取るかもしれない。

 

人によっては、あるいは場合によっては「リンゴの木」も「リンゴ」とすることがあるかもしれないし、少し論点と外れるが真っ赤な頬に対して「リンゴ」と譬えるようなこともあり得る。

 

ここでは主に視覚的な、あるいは視覚に類する想像的感覚に焦点を当てているが、リンゴの甘い香りに対して「リンゴ」という「名辞」が使用される場合もあるし、その甘酸っぱい味に対して「リンゴ」という「名辞」が使用される場合もある。

 

一つの思考上のモデルに基づいた分類方法に従えば、そういったものを総じて「リンゴ」というカテゴリに括れると考えるかもしれない。これについて、私はあくまでも一つの思考上のモデルとして位置づけるにとどめる。

 

「リンゴ」という名辞に対して例えばリンゴが描かれた絵のようなものを想い描いたとして、そこにシニフィエシニフィアンの関係を見出したとしても、これはリンゴの「名辞」とその「対象」を示す一つのモデルにしかならず、それを持って批判の余地のない「名辞」と「対象」の関係とは言えないだろうと私は思う。

 

少なからず示すことを念頭において、そういった一つのモデル、型あるいはパターンとでもいうべきだろうか、そういったものを用いるのは便宜上確かに有効であると感じる場合はある。他にいくつかの論点があるが、それは後述するつもりでいる。

 

抽象的名辞における対象

 

話を「意志」に戻そう。リンゴのように比較的想像しやすい対象であったとしても、その「名辞」が示す「対象」を明確に示すという作業、そういった作業を求めるということは適切とは言い難いように感じるが、一般的に「抽象名詞」に分類される「意志」のような「名辞」が何であるのかその「対象」を示すという作業はそれ以上に不適切に思える。

 

私たちはその対象を考えるにあたり複合的な物を見つけ出すに違いないし、またそれは一つのモデル、型、パターン、模型のような仮の物を認識したり、あるいは提示したりするのが恐らく私たちの行うことだろう。

 

私はこういった認識や提示を人間の限界であるとは捉えない。そこに何か仮の物ではない何かがあるかのような言説には与することはできない。私は「意志」の真実の姿などというものは存在しない、そういった対象を求めるべきではないと考えている。

 

さて、先ほど「意志とは何か?」と疑問を持つことがナンセンスであるかもしれないと述べた。このことについてそれが誰かにとってナンセンスであろうとなかろうと私はそういった言葉に耳を貸さないことにする。

 

「意志とは何か?」と疑問を持つことは私自身の個人的な欲求、渇望のようなものに近いのであり、それが一般的に、あるいは特定個人にとって求めるべきものであろうとなかろうと私のこの欲求とはかかわりのないことであると思える。

 

したがって、私自身も他者に私のような感覚を持つべきだと主張するつもりもないし、そういった主張があまり意味を持たないと感じているとだけ記しておきたい。

 

さて、私は特にこの日記において「意志」を主題に据えて論述していこうと思っている。私が「意志」について論じる上で、先に論じておいた方がよいと思うことが幾つかある。

 

先にそれを論じた方が後の混乱を幾ばくか避けることができるように私には思われるため、敢えて遠回りしたいと思う。

 

恐らく先に述べたい事柄というのは、必ずしも一般的に好まれる提示であるとは思えないし、一般的に使用されていない提示であると思われるが、私個人としては重要なことに思われるため、敢えて提示したいと思う。