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政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学009】ギルバート・ライルの位置づけ

my日本からの転載
2011年06月12日
ギルバート・ライル論
yahooブログからの転載
日本にあってはマイナーな哲学としての日常言語学派 (2011年06月12日)
心の主要な概念に対する非難 (2011年06月12日)

心ないし魂は三つのそれぞれ他に還元不可能な様式、すなわち、認識的Cognitive様式、情緒的Emotional様式、および意欲的Conative様式において機能すると言われる。

 

しかしながら、この伝統的なドグマはただたんに自明なものでないというだけではなく、むしろ多くの混乱と誤った推論とを巻き起こしてきたものであり、それ故、たんなる衣がえだけで話をすまそうとする試みは一切放棄することがここでは最善である。

      ギルバート・ライル『心の概念』

 目次

 

 



Girbert Ryle, 1900-1976
1900年英国ブライトンに生まれる。オックスフォード大学で古典学を学び、1924年クライスト・チャーチ・カレッジ講師となる。1932年「系統的に誤解を招く諸表現」を発表、1949年最初の本『心の概念』刊行、1945-68年オックスフォード大学の形而上学担当のウェインフリート教授、1947-71年『マインド』誌の編集長を勤め、日常言語学派の形成と発展に指導的な役割を果たした。ほかに著作としては、『ジレンマ』(1954)『思考について』(1979)等がある。1976年没。

 


 

戦後日本の研究対象カール・マルクスと黙殺されてきた日常言語学


前回に『心の概念』の第三章が「意志」であることを紹介しました。その事に触れる前に「日常言語学派」に関して少し思う事を書こうと思います。

 

ギルバート・ライルという名前を聞くと、少なくとも日本においてはあまり華々しい感じはしません。恐らくそれは日本のアカデミズムによってほぼ黙殺されてきたに等しい扱いを受けてきた、という事実があると思います。

 

それは日本の大学、哲学科の学界人によって無視されてきたという点が大きいのだと感じます。

 

日本の哲学と言えば、マルクスであり、所謂ポストモダンが主流だったのではないか、というのが私の感想です。

 

恐らくその推測はさほど外れてはいないでしょう。少し前の時代になると思いますが、「世界の名著」というものが広く日本国内の書店において華々しい装いをもって本棚に並んでいたと思いますが、名著と呼ばれる多くの著作の前書きはどこもかしこもマルクスの名前で埋め尽くされていました。

 

マルクスの名前が挙げられるのは百歩譲っていいとしましょう。ただ、他にも哲学者はいるわけですし、他に自然科学に関しても触れる要素などたくさんあるでしょう。しかし、時代の空気なのかどうなのかわかりませんが、決してそのようなことは為されなかったというわけです。

 

マルクス主義からポストモダン

 

少し時代を下ると今度はマルクス主義に代わるブームとしてポストモダンが持て囃された時代が来たように見受けられます。それは今日流行している言葉や、かつての哲学の徒の言葉を見れば一目瞭然です。

 

流行に振り回されて言葉の細部まで分析してこなかった民族は次のことから逃れられるはずがありません。それは気取った専門用語によってムードが作られることです。

 

そして未だに日本において哲学は恐ろしいほどに専門的な用語によって支配され、意味は常に曖昧模糊に扱われ、その判然としない意味を持つ用語が恐ろしいほどに型に嵌められた用法によって日本の哲学界は彩られて来たのだと推測します。

 

私たちの祖国、日本において哲学を学ぶ事は、一部では(といっても決して少なくないと思いますが)無用であり、有害とまで言われて来ました。それは今日まで続いていますし、個人的には反論し切れない気分でもあります。

 

日本人が陥った哲学のなかの権威主義

 

しかし、敢えて言わせてもらえば、こう私は言いたいと思います。私たちが哲学と名づけてきたものは決して哲学とは言い難いものであり、それはまさに「哲学」という権威に群がる人々の玩具遊びにも似たものであったのではないかと言いたいわけです。

 

学科としての「哲学」、といいましてもこういった「哲学」しか育んでこなかったわけですが、「哲学」がこのような有様である以上、私たちは「政治」にも「経済」にも「社会」にも期待するわけにはいかなくなってしまったとしても何も驚くに値しないでしょう。

 

少なくともこういっていいと思います。私たち日本人は一見するに輝かしいものに目を奪われ過ぎて、とても大事な小さな点についてはあまり問題にしてこなかったのだと思います。

 

恐らく内心では微かに感じていたと思いますが、私たちが近代文明を構築する過程の中で誤魔化し続けてきたのでしょう。

 

恐らく日常言語学派にみられるような考察という点についてもそうだと思いますが、それは他の多くの事についても言えることなのだろうと推察するのは難しいことではないでしょう。

 

少し遠回りになりましたが、ギルバート・ライルの『心の概念』における「意志」に関する考察に入る前に、こういったことに少しだけ触れておこうと思った次第です。

 



さて、主題に入ることにしましょう。ライルの言語分析に対する私の私見を率直に言えば、直観的には、言い換えると十分に論駁した意見としてではない、そういったものには到底到達できないと考えた上での考えを申し上げれば、ライルの説明の多くに対して、納得も了解も同意もできないという立場になります。

 

しかしながらそこには決して多くないにせよ、一般的な考え方とは異なる論理的な方法論が幾つか提出されていると私は思います。そういった意味で言えば、言語に関わる問題を考える上で全く手がかりとして使用できないとは言えないと私は考えます。

 

ライルの非凡なる平凡な修辞法

 

ライルの修辞法は、他の偉大な哲学者、たとえばニーチェヴィトゲンシュタインなどと較べれば非常に平凡なものと感じます。

 

少なくとも『心の概念』を書かれた時点でのその修辞法は、その平凡さ故に立ち入る事ができない領域というのがあるのではないかと率直に言いたいです。

 

印象としてはとても整った文体ではありますが、その文体故の縛りというのはあるでしょう。

 

その点については一先ず説明を保留することにして、次の文章について検討したいと思います。

 

心はある重要な意味において三つの部分から構成されているということ、すなわち、心的過程は究極的には三つのクラスに分類されるということが議論の余地のない公理として久しく認められてきた。

 

たとえば、心ないし魂は思考・感情・意志という三部門をもっていると言われる。

 

より硬い表現を用いるならば、心ないし魂は三つのそれぞれ他に還元不可能な様式、すなわち、認識的Cognitive様式、情緒的Emotional様式、および意欲的Conative様式において機能すると言われる。

 

しかしながら、この伝統的なドグマはただたんに自明なものでないというだけではなく、むしろ多くの混乱と誤った推論とを巻き起こしてきたものであり、それ故、たんなる衣がえだけで話をすまそうとする試みは一切放棄することがここでは最善である。

 

要するに、このドグマは、いわば骨董的理論の一つとして扱われるべきものである。

 

        ギルバート・ライル 『心の概念』 意志

 

ドイツ観念論と日常言語学


これは恐らくカントあたりを意識した表現であろうと思います。いわゆる悟性・感性・理性という三つはいつも同時並行的に取り扱われており、この三つの分類を主軸に話が展開されるというのは、この主軸の概念が実は的を射ていない概念であるとしたならば、そこに立てられた論理全体もまた疑わざるをえなくなるということでもあるでしょう。私はこの点についてライルの側に立ちたいと感じます。

 

カント主義・日常言語学派から脳科学認知科学

 

私はこの主軸の概念、さらに言えば概念の扱い方という点で、カントと合意に達しないし、今後も達することがないと思っています。カントの時代には「脳」というものの機能は今よりもずっと判然としないものであったと思います。

 

そういった時代の人物に対してこのような非難をするのも酷であるように感じますが、少なくとも現代にあっては、そういった時代の哲学に関する思考にあって「脳」というものを一切無視した、カント追従型の哲学は、政策能力もないのにいつまでも権威にしがみついている権力者宜しく非難しても構わないと私には思えてなりません。