日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【思想・哲学001】『方丈記』に想う

2010年02月28日
方丈記
mixiからの転載
鴨長明方丈記

 

私は自分が感じていることを援用するために歪めて『方丈記』を引用しているということを自分自身理解しているつもりでいる。しかし私にとって重大な事柄は『方丈記』における時代ではなく、私が生きている時代においての事柄である。

 

目次

 

 


Two Steps From Hell - Enchantress

 

行く河の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず


この著作に近づく切っ掛けは江川達也氏の『DEADMAN』という漫画でした。この作品の中で登場する主人公の吸血鬼・黒澤龍一の台詞にあった 。

行く河の流れは絶えずして、しかも、もとの水にあらず。淀みに浮かぶうたかたは、かつ消え、かつ結びて、久しくとどまりたる例なし。世の中にある、人と栖と、またかくのごとし。

からです。最初は何を引用したものなのか全く知りませんでしたが、たまたまテレビを見ていた時に、鳥越俊太郎氏(記憶が確かならば)がこの言葉を用いていたのでそのとき知りました。また、他にも宮崎哲弥氏も『生物と無生物のあいだ』の著者で知られる福岡伸一氏との対談の中で用いていました。


ちなみにこの文の現代語訳を角川ソフィア文庫から引用すると次の通り。

河の流れは一瞬も休まない。それどころか、河の水は後ろの水に押されて、つねに前に進み、元の位置に留まることはない。休むことなく位置を変えている。流れていないように見える淀みもそうだ。無数の水の泡が、留まることなく浮かんでは消えて、元の形を保つという話はいまだ聞かない。やはり、休むことなく形を変えている。このような変化の継続する中に「無常」という真理が宿っている。この真理は、そのまま人間の世界にもあてはめることができる。人の住まいもまた、ちょうど河の水や水の泡と同じなのだ。

 

この言葉は「真理」なのか


正直な感想としては現代語訳の「真理」という言葉によって意味を補足するのには納得がいかないところもないわけではない。ただ、こういった場合は、まあしょうがないかなとも思う。

 

日常生活において日常的にやりとりされる言語とは違う言葉だと思う。世俗的な言語にとって極めて蔑ろにされがちな視点にして、世俗的な言語に対して打ち出さなければならないとも思わせるようなアンチ・テーゼとしては痛烈かつ簡潔な批判であると思う。

 

この命題もしくはこれに類する命題を含めた中庸と含めない中庸とでは全く世界観が変わってくるといってよいだろう。


世の無常


ただ人間であるかぎり、必ずこのような無常観を無意識的にか意識的にかの別を問わずに感じざるをえない。しばしば古典にはこのような痛烈な言葉がいとも簡潔に纏められている場合がある。


無常観を表現する比喩には他にもこういったものがある。

知らず、生まれ死ぬる人、何方より着たりて、何方へか去る。また、知らず、仮の宿り、誰が為にか心を悩まし、何によりてか目を喜ばしむる。その主と栖と、無常を争ふさま、いはば朝顔の露に異ならず。或いは露落ちて花残れり。残るといへども朝日に枯れぬ。或いは花しぼみて、露なほ消えず。消えずといへども夕べを待つことなし。


マルクスによる資本主義批判と鴨長明による資本主義批判


資本主義の批判として社会主義的な批判、もしくはマルクス主義的な批判が目立つ現代社会に対して、かつて我々はこういった虚無主義的な批判を思い起こしたのではないだろうか?

人のいとなみ、皆愚かなる中に、さしもあやふき京中の家を造るとて、宝を費やし、心を悩ますことは、すぐれてあぢきなくぞ侍る。


「あぢきなき」は「面白くない」、「つまらない」という意味のようです。


面白くない、つまらないことはないと批判する人はいることでしょう。少なくともこの文章は京中において資財を蓄えて一喜一憂している人々を見ていた長明の視点であるということであり、この文章自体がアンチ・テーゼの形を取っていると見るべきでしょう。


それはともかくも私には現代的な平等主義的な批判よりもより根源的な批判のように思えるがみなさんはどのように思うのでしょう。当然に現代社会と平安末期から鎌倉初期のこの時代を較べるのには幾分無理があるということも私としては承知しているつもりで書いている。


現代社会に見られる不安や苦しみとこの時代に見られる不安や苦しみにはやはり差異があると認めないわけにはいかない。当時と比較すれば災害の程度は圧倒的に異なるといってよいだろう。それとは別に一つの前提として、かつての人々と我々とでは全く同じ感覚器官を持っているということは同時に言うべきかもしれない。


私は自分が感じていることを援用するために歪めて『方丈記』を引用しているということを自分自身理解しているつもりでいる。しかし私にとって重大な事柄は『方丈記』における時代ではなく、私が生きている時代においての事柄である。


生命または地球の歴史から見た無常観


さて我々が流れている河の流れを自分の人生を遡って相対的に世界を想像するのか、100年前まで遡って相対的に世界を想像するのか、あるいは800年前、1万年前、43億年前、はたまた200億年前まで遡って相対的に世界を想像するのか、あるいは時間という観念自体を超越して世界を想像するのかは諸個人によって異なるだろうが・・・こんな話はどうでもいいな・・・

 

PS


・・・文章を一列に繋いでいく散文にはどうしても抵抗感を覚えるな・・・


収集がつかなくなってきた・・・なんかマーク・トウェインの『不思議な少年』を思い出した。