日々思うこと

政治思想・哲学を中心に考察していきたいと思います。

【倫理・道徳001】誠実の辞書的な意味

2010年01月09日
誠実についての小論
mixiからの転載

 

目次

 

 


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誠実とは何か?

 

「誠実」とは何か?という問いにどれだけの意義があるのか私にはよくわからない。少なくとも「誠実」とは、当たり前の話ではあるが、前提として「現象」としての対象を持たない物質名詞ではない、抽象名詞にあたるということは言える。

 

そこで私はその具体的な対象にあたれないので、別の対象を探さなくてはならない。

 

「誠実」という言葉の「使用」例にひたすら当たるという方法と、その言葉に一応付与されている「定義」に触れる方法が考えられる。

 

誠実の定義とは?

 

残念ながら「使用」例の膨大なデータを持ちあわせていない私にとって、その「定義」に触れることから、この言葉の意味を模索するのが近道になりそうである。

 

まず、辞書的な意味に触れよう。

 

参考として「大辞泉」にはこうある。「私利私欲をまじえず、真心をもって人や物事に対すること。また、そのさま。

 

他の辞書にも触れておこう。「明鏡」ではこうなっている。「真心がこもっていて、うそ・偽りがないこと。

 

他にも参考として英語ではどういった単語が訳語として与えられているのかも見てみよう。[心のこもっていること]sincerity、[誠実さ]honesty、[正直]integrityとある。資料として用いたのはプログレッシブ和英中辞典です。

 

更にこの三つの単語の英語の意味も調べておこう。

 

sincerityは

 

the quality of being free pretence, deceit, or hypocrisy、honestyはthe quality of being honest、integrityはthe quality of being honest and having strong moral principles

 

となる。これに加えてhonestの意味もあわせて加えておこう。

 

free of deceit; truthful and sincere

 

とある。英単語を英語の訳で辿るのはキリがないのでひとまずここまでとしよう。

pretenceはイギリス英語でアメリカ英語だとpretenseとなるようだ。ちなみに意味はランダムハウス英和大辞典によれば、「見せかけ、仮面、虚偽、装い」あるいは「まねごと、作りごと」とある。

 

decietは「欺くこと、欺瞞、虚偽」また「たくらみ、計略、策略」、「ずるさ」などとある。hypocrisyはhypocrite「偽善者」でもわかるように「偽善;見せかけ」とある。sincereは「偽りのない、率直な、誠実な、まじめな」あるいは「正真正銘の、本物の」とある。念のためtruthfulは「真実の、正しい」という意味なのでさほどの違いはないと言って差し支えないのかもしれない。

 

一般的な解釈としての「誠実」という言葉と関係性の深い幾つかの単語が出揃った感じもしなくもない。少し内容を整理しよう。

 

「誠実」の辞書的な意味として「私利私欲」がなく、「道徳原理」に基づき、「真心」があって、「虚偽」・「欺瞞」・「偽善」がないという所が凡そ共通した意味合いなのではないかということになる。これはもう少し整理しなおす必要がある。

 

「私利私欲」がないというのは「道徳」との兼ね合いと検討しなければならない。あとの意味は、「虚偽」がないという部分である。つまり、纏めると「道徳」という体系の中で、「虚偽」と「真実」の関係に向き合う指標としての「誠実」という言葉というものを想起できる。

 

道徳体系の中の誠実

 

「誠実」という言葉は「道徳」体系の一つの方向性であり、その方向性というのが「真偽」にたいする「判定」であり「行動」であるという所があるというのは整理できたような気がする。

 

見方を変えると「誠実」という言葉には、常に「道徳」体系に向かう方向も存在し、単に「真偽」にたいする「判定」であり「行動」であるとすらも言えないという所も理解しておく必要があるだろう。たとえば、一人の偉大な科学者がいたとして、物事の「真偽」の判断基準に大きく貢献したとする。そしてそれと同時に彼がある人から見て「不道徳」に見えたとして彼をその人は「誠実」であるというだろうか?一歩譲っても「科学」には「誠実」に向き合っていると言葉を濁すことは十分考えられるだろう。

 

少々回りくどい話になってしまったが、私が言いたいこととして、「誠実」について考える場合、一度われわれにとっての「道徳」体系とは何かということ、「真偽」とは何かということを分けて議論してから、そこでテキストを生み出し、そして再度その分かれた議論を統一するという作業が必要なのではないかということである。

 

あるいはこうも言える。

 

既に存在する「道徳」体系に関する議論や意見、そして「真偽」に関する議論や意見を収集することによって、はじめて「誠実」というものの議論を展開できるのではないかということである。たとえば、真偽についての意見としては、科学哲学などからも極めて綿密な議論がなされて来たことをわれわれは知ることができる。

 

そういったテキストを、やや難解ではあるが、「科学」から「道徳」へと持ち込むあるいは送り出す必要があるのではないかと指摘したい。